TSF分類学序論

(フレッシュイア 2002年5月27日提出)


 1.序

 この稿は、TSFを分類する上での基本的な考え方を提示するためのものである。

 まず初めに、なぜTSFを分類するのかを述べておくべきだろう。
 一般的に言えることであるが、分類とは、「物事を整理し体系的に物事を把握するため」になされるべきものである。
 したがって、ここでいうTSFの分類というものも、TSFというものを把握するためになされることを目標とする。
 すなわち、TSFとは何なのか、あるいは、TSFにはどんな可能性があって、TSFの枠組みで何ができるのかを考察するための分類でありたいと思う。
 TSFを作る者、またはTSFを楽しむ者が、自分がTSFに対してどのような指向性を持っているのかを理解できるようになれば、TSFというものがさらなる発展を見せるであろうということを夢見てこの稿を書いている。

 私がここでTSFを分類しようとすることの背景には、TSFが現在、ある程度発展して多様化を示していることがある。
 TSFの発展は、主に、「今までこういうものがなかった」という認識のもとに、「こういうものが欲しかった」というものが持ち寄られて作られていくことでもたらされたという印象がある。
 その結果として、その発展はいわば網羅的であったと言える。
 もちろん、TSFがそのような発展の形態を取ったことはある意味必然だっただろう。
 しかし、どんな分野ででも言えることだが、そのような発展形態を採用した分野は、それを体系化させる努力が中から現れない限り、長くは続かないものである。
 どこへ向かうべきかの指針を、少なくともそれを作る人が持たなくなってしまえば、その分野は無意味に肥大化し退廃に向かって転がり出すだろう。あるいは、単に興味を持たれなくなり、打ち捨てられるだけかもしれない。
 網羅的に発展した分野の危険性はそこにある。
 私の分類のねらいは、網羅的に発展したTSFに対して何らかの視点での体系を与え、TSFの機能を考え、次なるTSFの発展の道を探ることにある。

 この稿は、以下、いくつかの節に分けられて、TSFの分類に関する議論が進んでいく。
 まず、第二節でTSFに対する一般的な事項を確認し、第三節以降でTSFの様々な方法での分類を考察していくことにしよう。



 2.TSFとは

 それでは、まず、TSFに対する一般的な事項を確認しておこう。
 TSFとはなんだろうか?

 TS(トランスセクシャル)とは、生物がその個体の性別を変える現象のことを指している。
 比較的下等な生物では性が未分化であることがあり、個体の性決定後も自然現象として性別変化することがあるが、もちろん、人間では、性が決定された後で自然に性別変化することはない。
 そのため、人間においてTSと言えば、本来、精神医学における用語であり、精神病理的な疾患とされているものである。
 その意味においてのTSは、自分の肉体の性別に対して違和感を持ち、性転換手術やホルモン治療を希望する人のことを指している。もしくは実際に性転換を行った人のことも指す。WHOの定める性同一性障害の分類のうちの一つである。(他の性倒錯については、後の説で述べる)

 以上は、一般社会において使われる意味でのTSである。

 一方、我々のコミュニティの中でTSと言えば、性別が変化すること、もしくは、(広い意味での)性別変化全般を扱ったフィクションを指すのが一般的である。
 TSFというジャンルも、同じく性別変化を扱ったフィクションであるが、その性別変化の手段として、性転換手術やホルモン治療といった現実の社会で使われているものを区別しようとして作られたジャンルである。
 すなわち、TSFと呼ばれるフィクションの中の登場人物は、その初期状態においては、自分の肉体的性別に対して違和感を持って悩むことはないし、また、現在行われているような手術やホルモン治療によって、その性的特長を変化させることはない。
 では、どのようにして性別を変化させるのかというと、空想上の方法によって変化させるのである。
 その意味で、TSFとは、SFであり、現実世界と似てはいるが異なった世界、あるいはファンタジー世界を舞台とする。
 その世界の中で、何らかの空想上の方法で性別が変化した登場人物は、いわば無理やり性倒錯状態へと導かれることになる。
 それがTSFの世界である。
 TSF愛好者は、現実には起こり得ない方法で作り出された性倒錯状態をフィクションとして楽しむのである。



 3.手段別分類

 性別変化の手段として、手術やホルモン治療といった現実世界で使われているものと区別し、空想上の方法によるとしたものがTSFである、と書いた。
 そのような出自をもったTSFが空想上の手段によって類別されていったのは、自然の流れであったと言ってよい。

 その手段は、伝統的に大きく3つに分けられる。
 すなわち、「変身」「入れ替わり」「憑依」である。
 おおまかに言って、それらは次のようなものである。

 「変身」は、自分の肉体がなんらかの魔術的と言える不可知の方法によって変化することで性別が変化する。
 「入れ替わり」は、自分の精神と異性の精神が入れ替わることによって、主体的に見た自己の肉体的性別が変化する。
 「憑依」は、自分の肉体から自己の精神を分離し、異性である他者の肉体に憑依することによって、主体的な肉体的性別が変化する。

以上の3つである。

 客観的視点に立てば、「入れ替わり」や「憑依」の場合は、肉体の物体的変化はどこにも生じないが、自己の持つ主体的視点に立てば、その二つも、性別が変化しているわけである。
(どちらにしても、大枠で見れば、TSFとは、主体的な自己の『変身』を扱ったフィクションの中のジャンルである。そのため、上記三つの中の「変身」の特徴を強調する意味で、サブジャンルとしての「変身」を「自己肉体変化」と呼ぶこともある)

 これら3つ以外にも、性別変化の手段は多様化を見せている。
 たとえば、「脳移植」(主に外科的に、あるいは不可知の方法によって、異性間の脳を交換する)や、「皮モノ」(異性の皮(きぐるみ)を「着る」ことによって、(見かけの?)性別を変化させる)などが挙げられるだろう。
 これらは、どのように性別を変化させるか、という観点を軸にして、多様化していったものと言って良いと思う。(これを手段別分類と呼ぶことにする)

 

 このようなTSの手段を軸にしてTSFは発展してきたわけであるが、これらの類別は、実は厳密なものではない。
 そのことは、以下の例を出してみると分かりやすい。

 「変身」では、魔術的といえる不可知の方法によって肉体が変化する、と書いた。
 そこでは、性器の形状や、胸などといった性別的特長を持った箇所が肉体的に変化するにとどまらず、遺伝子などの生物学的にもっと本質的なところで性別が変化することが多い。性転換手術やホルモン治療とは違い、本質的に異性になることに主眼が置かれている。

 「変身」では「自分の肉体が変化する」わけであるが、自分の身体が異性である他人に変化し、そしてさらに、その他人が自分の肉体に変化したとすると、結果として、それは「入れ替わり」と異なるところがなくなる。
 そのような場合、それを「変身」とするのか「入れ替わり」とするのかは、曖昧である。
 これをどちらに分け入れるかは、実は個人の好みによるところが大きいと思われる。

 これらの好みの違いを考察するために、「実体論的」変化と、「反応論的」変化、という用語を使うことにしよう。
 どんぶり勘定で言えば、「実体論的」とは、肉体がどのように変化したか、あるいは自己再現性のある精神がどのようにその所在を変えたか、という客観的視点において変化を記述するものである。
実は、前に書いた「変身」「入れ替わり」「憑依」の説明は実体論的見地に立っている。
 実体論的に見れば、先ほどの互いの肉体に変身するものは、「変身」に類別されることになるだろう。
 TSの手段の多様性は、実体論的に見て主体的な自己に帰属する肉体がどのように変化するか、という軸により多様化を見せているのだ、と理解できる。

 では、「反応論的」とはどのようなことであるか。
 「反応論」心脳一元論に基づいて考察してみよう。すなわち、心は脳の機能である
 「反応論的」見方では、精神は肉体の持つ機能として捉える、あるいは、肉体が見せる反応として精神が表れるというものである。
(それに対して、「実体論」の方は、精神と肉体の二元論に基づく。すなわち、精神とは実体のある存在であるとするのが「実体」という言葉の意味である。ここでは、少し拡張したニュアンスで、実体のあるものが「変化」するという見方を「実体論的」と称している)
(より正確に書けば、「反応論」は、精神と肉体の一元論の中の唯物論である)

 反応論的見地に立てば、前出の相互肉体変化は、「入れ替わり」に類別されることになるだろう。
 もっとも、反応論的に考えれば、精神は自己再現性のある存在ではないのだから、相互肉体変化ではない「入れ替わり」はあり得ないのではないか、と思われるかもしれない。
 だが、そこは空想的方法なのだから、肉体の見せる機能としての精神がごっそり入れ替わるのも可能だと考えるわけだ。
(むしろ、現時点での科学的知識から判断すれば、肉体の方をごっそり入れ替えるのよりも実現の可能性は大きいだろう(か?))
(参考として、西澤保彦氏の『人格転移の殺人』の中で、人格転移が反応論的に起こっているか、実体論的に起こっているか、作中人物が議論している)

 また、「憑依」では、魂のようなものが肉体を離れて実体化しているのだから、基本的に実体論に基づいている。
 だが、そういった途中経過なしで乗り移るのであれば、反応論的に理解することもできる。

 そういった実体論的な途中経過を無視すれば、「(肉体を変化させない)入れ替わり」と「憑依」は、同じものが異なった形で現れたもので、現象的には同じカテゴリーに属するものとして捉えるべきかもしれない。

 さて、「実体論」「反応論」とを分けて議論している。
 急いで注意しておくべきことだが、どちらか一方だけで見なければいけないわけではない。
 なぜこのように区別して書いているのかというと、現時点では、どのように肉体が変化したかという「実体論的」視点にばかり重点が置かれてTSFの中のサブジャンルが作られているように見えるから、というのが一つの理由である。
 実体論的なTSFの手段は、TSFが作品として形作られる上で、どんなことをその作品の中でやりたいかによって選択させるべきもので、その手段によってジャンル分けがされているばかりでは、当然のようにTSFは行き詰まってしまうと思うのである。
 そう思うのは、TSFという物語は、登場人物の肉体が実体論的にどのように変化したかということだけではなく、肉体が変化したことで登場人物がどのような反応を見せたかということもまた、重要な要素であるからだ。
 TSFを考察するにあたり、実体論的見方と反応論的見方をうまく使い分けていくことが重要だと思うのである。

 この稿での私の立場は、性別が変化したことにより生み出される肉体の機能がどのようなものか、すなわち、肉体が変化したことにより精神がどのような反応を見せるのか、その好みにより、それをうまく表現できる変化の手段が選ばれている、というものである。
 つまり、手段別分類以外に、TSFの考察に有効なTSFの分類方法があるはずである。
 言い方を変えれば、「変身」「入れ替わり」「憑依」という分け方は、そういった反応の好みをうまく切り分けることに成功していたので、これだけ普及したのだと私は思う。どのようにTSしたかによって、予想される反応はある程度決まっているからである。
 TSFを体系化する上での分類として、手段別分類以外に基本となるべき分類を考えたい。
 この稿の考察の対象となっている分類は、そのような気分が元になっている。



 4.自我別反応分類

 「反応論的」見地で見ると、精神とは肉体の機能の一つであり、自己再現性のないものであるから、「入れ替わり」を前提とするような場合は特にそうであるが、何をもって自己と規定するのかが難しくなる。
 このことは「変身」においても同じことで、異性の身体に変身した自分の身体をすぐさま自己と規定できるかどうかは難しい問題であろう。
 というより、性別変化後の自己規定が、TSFにとってもっとも重要な分類の対象だと言っても過言ではないだろう。

 そのことを見るためには、心理学「自我」という言葉を使うのが便利である。
 心理学でいう「自我」とは、自分自身に対する意識・観念のことである。
 さて、伝統的心理学では、「自我」を次の三つに分けている。
 「精神的自我」「物質的自我」「社会的自我」である。
 大雑把に言って、「精神的自我」は自分の内面に対する自我、「物質的自我」は自分の肉体に対する自我、「社会的自我」は対人局面における自我、である。
 これらの心理学用語を使って言えば、TSFとは、主体的自己の性別変化によって、それぞれの「自我」がどのように変化を見せたか、という物語である。(これによるTSFの分類を、自我別反応分類と呼ぶことにしよう)
 この見方において、「物質的自我」の対象である肉体が、元は自分のものであったか、それとも実在する異性のものであったか、などという区別は重要である。(つまり、反応論的見方における「変身」と、「入れ替わり」・「憑依」の区別である)
 それによって、新しい肉体に対する「物質的自我」の与え方が当然異なるし、自分が何者であるかと規定する「精神的自我」の反応も異なる。また、「社会的自我」の反応の仕方も有意に異なるはずである。

 自分の萌えの対象となる自我変化が、どの自我のものに力点が置かれているかを考察してみると面白いかもしれない。

 この稿の作者が好きな展開は、「物質的自我」を失って途方にくれる登場人物が、「社会的自我」の変更を余儀なくされ、新たな「社会的自我」を得ていく上で、いつしか新しい自分の体に対して「物質的自我」を感じ始め、ついには、「精神的自我」も変わってしまっているというものである。

 

 5.性倒錯鑑賞タイプ分類

 TSFとは何かを提示したときに、「TSF愛好者は、現実には起こらない方法で作り出された性倒錯状態を、フィクションとして楽しむ」と書いた。
 したがって、その性倒錯がどのようなタイプの性倒錯かで、TSFを分類することができるだろう。(これを性倒錯鑑賞タイプ分類と呼ぶことにしよう)
 そのためには、精神医学用語として使われているいくつかの性倒錯用語を使うと便利である。(ただし、言うまでもないことだが、あくまでアナロジーとしてそれらの用語を使うだけであるので、誤解をされないように注意が必要だ)

 まず、いくつかの性倒錯類型について見ておこう。

 精神医学の疾患名として使われる性同一性障害は、TS(トランスセクシャル)TV(トランスヴェスタイト)の二つである。
 TSは、既に説明したように、自分の肉体的性別に違和感を持っていて、手術やホルモン治療によって肉体的性別変えたいと恒常的に望んでいる人のことを指す。
 また、TVは、異性装を好んでする人のことを指す。ヴェスタイトとは、ラテン語で服のことである。
(TVは精神医学用語であるので、異性装者は自分たちのことをCD(クロスドレッサー)と呼ぶのが普通である)
 俗にTS/TG/TVと呼ばれるが、TG(トランスジェンダー)は精神医学上の用語ではない。そのため、精神医学上の用語で呼ばれることを嫌った当事者たちが使用することが多く、TS/TG/TVの3つをまとめて広義のTGと称することもある。
(狭義の)TGは、自分が社会的生活を営む上で望ましいと思う性別が、肉体のそれとは異なっている人のことを指す。TVとの境界は曖昧であることがあるが、自分の肉体的性別を変えようとはしないという意味で、TSとははっきりと異なっている。

 以上は自分の性自認に対する倒錯類型であるが、それ以外にも、どの性別に対して性的興味を感じるかという性的指向性(セクシュアリティ)に対する倒錯も重要な概念である。
(性倒錯の中で、性同一性障害性指向障害は明確に分けなければいけないことを注意しておく。
たとえば、同性愛者などのいわゆるゲイと呼ばれる人たちの多くは、自分の肉体的性別に対しては違和感を持っていないのが普通であり、彼らを性同一性障害と呼ぶのは適切でない。
また、異性の身体になりたいと思っている人、または異性の性役割を身に付けたいと思っている人が、同性を性的対象としてみるかどうかは、完全に異なった次元の問題である)
 性的指向性が”ストレート”でない人を称するものとして、ホモセクシャルバイセクシャルアセクシャルなどの用語がある。それぞれ、同性愛者、両性愛者、無性愛者である。(ストレートの場合は、ヘテロセクシャル、異性愛者である)

 もちろん、何度も強調する必要があるが、TSFという物語の中で、それら本来の意味での性倒錯者が主役となることはまずない。
 また、TSF愛好者がその種の性倒錯者であるという相関はあまりない(はずである)。
(もっとも、フィクションの中でのみ異なる性的指向性を持つような二重見当識という状態も考えられるが、TSF愛好者の場合は、そういったセクシュアリティと切り離されていることがほとんどであろう)
 TSFのコミュニティが用いる「TS」という用語は、あくまでも主体的な自己の性別変化、またはそれに端を発する物語のことを意味している場合がほとんとであり、精神医学の用語としての性倒錯や、社会的に実在するトランスジェンダーコミュニティで使われる用語と混同してはならない。
 繰り返すが、空想上の方法で作り出されたなんらかの性倒錯状態を、あくまでもフィクションとして楽しむのがTSFである。
 TSFというフィクションの中で作り出される性倒錯状態を、上記のTS/TG/TVといった性倒錯類型を使って分類してみよう、というのがこの節の趣旨である。

 それでは、作り出された性倒錯状態を、TS/TG/TVの類型に分類してみよう。

 まず、TSでは、登場人物の性別が変化したことで持つ自分の肉体に対する違和感がメインになる。
 次に、TG(狭義)では、性別が変化したことによる社会的環境変化解放もあれば喪失もある)がメインとなるだろう。
 最後にTVであるが、これについては注釈が必要である。
 まず、本物の異性装は、なんらかの実体的変化を伴っていないので、TSFの範疇にいれないという立場を取ることが多い。
 したがって、対応関係も考えにくいのであるが、ここでは、異性の肉体を服と見立てることにして、異性の肉体になることに対する自己の反応「TV的」としておこう。
(TSの場合は、変化した自分の肉体に対する違和感(つまり元に戻りたい)がメインなのに対して、TV的なものは、どちらかというと異性の体に対して積極的なものをイメージしているつもりである)

 TV的なものについてはさらに分けることができる。
 それは、現実の精神医学用語であるTVが次の二つに区別されていることに対応している。
 すなわち、「両性役割服装倒錯」「フェティシズム的服装倒錯」である。(ともに正式な疾病分類である)
 前者は、異性の性役割を持ちたいという願望を、異性の服装を着用することによって叶えようとするものである。その意味で、狭義のTGが異性として社会参加するための手段として見ることもできる。
 後者は、性的興奮を目的として異性の服装を着用するものである。異性の服に興奮するだけなのではなく、それを自分が着ることで興奮を喚起するという意味で、単純な服装フェティシズムではない。このタイプのTVは、性的興奮が収まれば服を脱ぎたいと思うことから、いわゆる性転換願望とははっきりと異なり、ゲイのコミュニティとは関係なく一般社会に一定の割合でいるとされている。(つまり、性同一性障害とは診断されない)
 この二つのTVは、まったく異なったものであり、正しく区別するべきである。
 先に「TV的」と名づけたTSFのパターンでも、この二つをはっきりと区別することができるだろう。

 また、TSFという物語の中で、TSした登場人物が見せる性的指向性がどの性別に向かうかも重要なポイントである。
 しかし、バイセクシャルやアセクシャルはともかく、ヘテロセクシャルとホモセクシャルをTSFの中でどのように定義すべきか迷うところである。(おそらく、不用意に定義しない方が賢明だろう)
 もちろん、TSFの場合の性的指向性は、同性に向かうか、異性に向かうか、だけではなく、TSして女の体になった元男に向かうこともあるので、話は一層複雑である。
(つまりは、TSFというフィクションの中で、読者が感じる性的指向性といってもいいのかもしれないが、ここでの深入りはやめておこう)

 前節と本節において、TSFの中の登場人物が見せる反応タイプについて、どういった自我が反応するのか、またどのような反応類型があるのかを見てきた。
 読者はここで、自我別反応タイプ性倒錯鑑賞タイプのつながりがどうなっているのかを考えてみるとよいだろう。



 6.視点別分類

 TSFにおける反応タイプには、いくつかの典型的なパターンがある。
 異性の体になったことに対して戸惑ったり、それを拒絶したり、あるいは仕方なく受け入れたり、それによって対人的立場を獲得したり失ったりする。そして、時にはその状況を積極的に享受しようとしたりする。
 我々はそれらの反応を見て、フィクションとして楽しむわけである。

 それらの反応を楽しむ上で、作中の視点がどこに置かれているかは重要である。
 小説の場合は、一人称表記で書かれる場合と、三人称表記で書かれる場合がある。
 一人称表記で描かれている場合でも、記述者本人がTSするのか、それとも記述者ではない人(友人など)がTSするのか、によって、その楽しみ方はことなるだろう。(これを視点別分類と呼ぼう)
 小説以外の媒体でも、主人公がTSするのかどうかは分けられるだろう。(しかし、ヴィジュアルメインの媒体では、ほとんどの場合、主人公がTSしているような気がする)

 作品がどのように描かれているかに関わらず、読者が感情移入する対象は基本的に自由である。
 読者はTSした登場人物の反応を見てそれを楽しむわけであるが、それを客観的に楽しむだけでなく、それを見て羨ましいと思うこともあるだろう。
 基本的に人間は他人のものを羨ましいと思う存在であるし、人間には誰しも少なからず変身願望がある。
 当然のように、作中人物に自分を重ね合わせる楽しみ方もあるわけである。
 そして、そういった読者がいる以上、TSF作品の中で、作中人物が自ら異性の体になることを求めることがあるわけである。
 その結果、TSした人の反応を見て楽しむ以外に、登場人物がTSして異性になることに対して自分の変身願望を重ね合わせるという楽しみ方がある。
 前者を「見る」楽しみ、後者を「なる」楽しみと呼ぶことにする。
(もちろん、あくまでもフィクションであり、(少なくとも現在では)不可能な方法によって「なる」わけであるから、我々読者は結局はそれを見て楽しむしかない)
「見る」と「なる」という二つの視点は、ジョーカー氏によって指摘されている。「肉体交換ちょっと前」を参照されたい。また、「闇の顛末」のあとがきでも触れられている。見る楽しみの追求については「みすていくおーばー」が参考になる)
 この二つの視点をうまく使い分けることは、TSFを楽しむ上で重要なキーポイントであると思う。
 どの視点で見るかによって、TSFの楽しみ方はまるで違うからである。
 また、それぞれの視点を持った登場人物をうまく配置することは、TSF作品を書く上でのテクニックでもある。

 前節で述べた「TV的」要素は、「なる」楽しみに相当する。
 前節で説明したように、「なる」楽しみでは、異性の性役割を楽しむことと、異性の体をフェチ的に楽しむという、二つの異なった楽しみ方がある。
 また、一方の「見る」楽しみは、前節で述べた意味での「TS的」要素が強いだろう。
 もちろん、異性の体になってしまったことで戸惑っているのを見ることを楽しむこと以外に、登場人物の状況変化によって起こる獲得と喪失を見るという「TG的」要素を見て楽しむということもある。



 7.状況タイプ分類

 何度か書いているように、TSFの楽しみは、TSしたことによって起こる悲喜こもごもを見て楽しむことであり、TSした状況を楽しむことにある。
 であるから、どのような状況でTSするか、またはTSしたことでどのような状況になっているかは、TSFにとって重要な要素である。(状況で分ける分類を、状況タイプ分類と呼ぼう)

 どうのような状況でTSするかは、どんぶり勘定で言って次の3つの分類がすぐに浮かぶであろう。
 すなわち、「なってしまう」もの、「されてしまう」もの、「自らなる」もの、である。
 これらは、TSが人為的に起こるかそうでないか、TSが能動的か受動的か、の二つの網で3つに分かれている。
 もちろん、二つの網で分けるのであれば、次の四つの分類ができることになる。
 人為的に自ら進んでTSするもの。
 人為的に他者の手によってTSされてしまうもの。
 人為的にではなくTSしてしまうもの。
 人為的にではないが、TSしたことを享受するもの。
 以上の4つである。

 もちろん、TSが人為的に起こったかそうでないかは、物語の中で明かされないこともあるし、最初のうちは自然に起こってしまったと思われていても、実はそれは人為的であったことが分かる、ということもある。
 しかし、とりあえずストーリー展開のことを忘れて、TSしたときの反応を分けようと思えば、この4つに分けるのはある程度納得のいくことだと思う。
 4つのタイプでそれぞれの自我反応タイプも異なるであろうし、性倒錯鑑賞タイプ視点分類もうまく組み合わされていると思う。



 8.萌え要素分類

 いままでの分類は、できるだけ大きく分けようとして分類してきた。
 しかし、そういったどんぶり勘定だけでは、TSFの「ツボ」をうまく拾い上げていくことはできない。
 ここでいう「ツボ」というのは、作品の中に現れる特殊なパターンのことを指し、自分の好みにピンポイントで合うようなもののことをいうためこの名がある。
 その「ツボ」を見ることによって萌えが喚起されるという意味で、「萌えツボ」とも呼ばれる。
 そういった小分類としての細かい「萌えツボ」も、TSFを考えていく上で重要である。

 今のオタク系文化を語る上で、「萌え」という現象は外すことのできないものであり、当然ながらTSFもその例外となることはできない。
 「萌え」というのは一種の興奮状態であるが、非常に多様な形態が一まとめに「萌え」と表現されてしまっているために、この言葉を扱うときには慎重になるべきであろう。
 「萌え」そのものについての考察は別の稿に譲ることにして、ここでは、TSFの萌え要素について簡単に見てみることにしよう。

 TSFではない一般の作品によく見られる萌え要素としては、「猫耳」「メガネッ娘」などが挙げられる。
 それらが名詞的なのに対して、TSFの萌え要素は、比較的に述語的であることが特徴的である。
 それは、TSFというものの萌え要素が、どのように性別変化したかや、性別変化によってどのようになったか、またはどうなりたいか、にあるからであろう。

 以下、よく使われるTSFの中に現れる萌え要素をいくつか列挙してみる。

年齢退行/進行
性別変化と時を同じくして、主体的自己の肉体の年齢が若返ったり歳を取ったりする。

不可逆
TSしたまま、元に戻れなくなってしまう。

精神変容/洗脳
TS後に調教・洗脳されて、本来の自分を忘れてしまう。

略奪
これは「入れ替わり」系に特に見られるものだが、特定の女性の体を奪ったり、あるいは自分の体が奪われたりする。

猟奇的変身
美醜に関わる交換を強いられたり、望まれざる変身を余儀なくされる。

部分変身/交換
身体のパーツを部分的に変化させる、あるいは他者と交換する。


鏡そのものに萌えるのではなく、TS後に自分を確認するシチュエーションを指す。

揉み/跳び
女性へのTS後に、自分の胸を揉んだり飛び跳ねたりして、乳房の存在を確かめる。

 以上、いくつか挙げてみたが、この稿の作者の趣味が如実に反映されてしまっていることをお断りしておく。

 その他、TS後の身体の特徴やその職種により名前を付けられている萌え要素もある。
 また、TS後に異性の性役割を演じることの細かなシチュエーションとして、着替えや化粧などがあるだろう。
 性倒錯鑑賞タイプ分類の節で触れたTS後の性的指向性倒錯も、重要な萌え要素である。



 9.TSFタイプ分類と作品分類

 いままで挙げてきたタイプ分類は、基本的にTSFの要素の分類であって、TSF作品そのものの分類ではない。
 作品自体は、いくつかのTSF要素が組み合わさってできているのが普通であり、作品の分類にはいままで述べてきたものとは違う分類が基本的には必要であろう。

 TSF作品は、SFやファンタジーといったジャンルと特に相性がいいと思われるが、その他のエンターテインメント系のジャンルと結合しても面白いものができるのではないだろうか。
 それは、TSFが「成長」というテーマを核にすることができるからだと思われる。
 「成長」はあらゆる生命に運命付けれれた宿命であり、創作の源でもある。

 「成長」をキーワードにしたTSFという物語の作品性については稿を改めて論じることにしたい。



 10.最後に

 TSFの要素、その中でも特に反応論的要素に注目した分類について議論してきた。

 それらの様々な分類法を考えてみても、TSFの反応的要素は、できるだけ大きく分けようとすれば、3つないし4つのカテゴリーに分けられるのではないだろうか。
 多くのTSF愛好者にとって、TSFの好みはそれらの適当な組み合わせによってできているのではないかと思う。
 それらの要素をうまく配置して作品を作っていくことができれば、TSF作品の幅が広がっていくことと思う。

 この稿の作者が望むのは、読者に対してどれか一つの分類法を強いるということではない。
 分類法については、読者それぞれが独自のものを持てばよい。
 望むことは、どれか一つの分類法に縛られることなく、自分が好きなTSFの方向性を自覚的に探っていって欲しいということである。
 そうすることで、TSFという共有幻想が、豊かで健康的な発展をすることを期待している。






おふび〜つ・TSF図書館から特報♪

この度、おふび〜つ図書館では、試験的に分類インデックスを作品ごとに付けることになりました。
そのインデックスは次のようになっております。

願望:xx 偶発:xx 強制:xx 鑑賞:xx

それぞれのxxには数字が入っていて、4つの数字を足すと100になるようになっています。
「願望」「偶発」「強制」「鑑賞」は、TSFの基本的要素と私どもが考えているものです。
それぞれの基本的要素がどの程度の割合で作品の中に含まれているか、それをこの表示は示しています。

   「願望」パラメータは、TSした状況を本人がとにかく喜んじゃうパターン。
   「偶発」パラメータは、TSしちゃったよ、ありゃま、どうしよう、っていうパターン。
   「強制」パラメータは、TSされちゃったりして、とにかく女の体を嫌がってるパターン。
   「鑑賞」パラメータは、TS現象を、自他に関わらず意識して楽しんでいるパターン。

それぞれのパラメータをおふび〜つTSF分類委員会がフィーリングで評価して表示しますので、閲覧の参考にしてくださいね。

☆一応注意しておきますけど、それぞれの数値はその作品内での相対的な割合ですよ。
だから、違う作品同士で、特定の数値を比べても意味はありませんのでご注意くださいませ。