ヴィ・メイル

作:KEBO 


<プロローグ>

 絶え間のない人通り。眠ることのない繁華街へと、男は入っていこうとしていた。彼の足取りははっきりとしていたが、彼自身は、何故自分がここを歩いているのかよくわからなかった。気がついたら、ここを歩いていたというべきであろうか。
 彼、中野清は何か漠然と、行くべきところがあるように感じていた。確か昨日も同じようにここへ来た気がする。このところ数日間こんな感じだ。会社を出て、気がつくとここを歩いている。しかし、ここへ来るまでの記憶も、昨日ここへ来てどうしたかという記憶も、なぜかまったく思い出すことができなかった。昨日も気がついたら終電に乗って家に向かっていたのだ。
 ここ数日、どうも体の調子が悪い。どこが、と言われると困るのだが、どうも元気が出ない。会社でも、同僚たちから「顔色が悪い」と言われた。洗面所で鏡を見ればなるほど、目には隈ができていて自分で見ても顔が悪い。おそらく寝不足なのだろう、早く帰って休もうと会社を出たはずなのだが、気がつけば、ここを歩いていた。
 繁華街の一角、有名な待ち合わせ場所で、彼は立ち止まった。誰かと待ち合わせをしているように思う。誰、と憶えているわけではないのだが、不思議とそんな気がした。彼は、そんな自分をおかしいと思った。もしかしたら悪い病気かも知れない。これはもしかしたらこんなところでうろうろしている場合ではなくて、病院に行った方がいいのかも知れない、そう思ったところで、彼の思考は中断した。
 雑踏の中を、「彼女」はまっすぐ彼の方に向かって来た。彼の目は、そのノースリーブとパンツという姿の「彼女」から目を離すことができなくなっていた。彼は思いだした。彼はまさしく「彼女」と待ち合わせをしていたのだ。
 やがて、「彼女」は清の前に到着した。そして、人目も憚らずそのまま首に両腕を回すと、奪うように自分の唇を清の唇に重ねた。しかし、やはりと言うべきか、そんな彼女の行動を奇異の目で見る者は周囲にはいなかった。ここは繁華街。いちいちそんな他人のことを気にしている者は少ない。「彼女」はゆっくりと唇を離すと、微笑んだまま清に向かって言った。
「おまちどおさま。行きましょう」
 頷く清。彼にはそれを拒む理由など無いように思えた。記憶が蘇る。「彼女」が与えてくれる、甘美な、至高の快楽としか言いようのない時間・・・拒むなどとんでもない。「彼女」にその時間を与えて貰うには、「彼女」の言うことに逆らってはいけないのだ。
 呆けたような顔のまま、清は「彼女」に連れられ雑踏の中に消えた。


<第一章>

「まったく、何がどうなってんだか」
 開店直前の洋風居酒屋、プラランの店内。井川誠は、わからないという風に首を振った。
「とりあえず、今から何人か電話するけれどたぶん駄目だろう。今日はきついががんばってくれ」
 店員たちに言い渡す井川。その顔が、呆れたような表情を浮かべている。それもそのはずだった。世間は春、新入生や新入社員の季節だった。そして今日は金曜日。会社帰りや学生のコンパなどで店は戦場のように忙しくなる。だというのに、アルバイトの一人、三上正一が無断欠勤しているのだ。確かに昨日顔色が悪かった。早く帰って休めとも言った。しかし、今日は何の連絡も無しに休んでしまっている。部屋にも携帯にも電話が繋がらない。電話してからもう一時間は経つので、向かっているとすれば何か事故にでも遭わない限り現れないことはありえない。
 井川は、この店の店長だった。彼も元々アルバイトだったが、近隣に三店舗を経営するオーナーが、彼を正社員に迎え入れこの店を任せたのだ。その三店舗の中で、井川の店が一番売り上げが高い。場所柄を考えても、オーナーが「俺の目に間違いはなかった」と言うのはあながち誇張ではないと井川は自負している。
 それはともかく、もちろん三上が事故か何か緊急事態にあった事は考えられた。しかし、井川の店では、これで二人目だ。ほんの一週間前にも、大沢弘というアルバイトが、突如無断欠勤しそのまま連絡も付かなくなってしまっている。彼の場合、それから給料すら取りに来ない。他にも無断欠勤してそのまま辞めた者はいたが、井川にしてみれば「おそらく長続きしないだろう」と思っていた者ばかりだったのであまり気にしなかったし、そういう連中も給料だけは必ず取りに来る。しかし三上と大沢の場合はどちらも長期採用で、今まで二人とも一年以上も真面目に働いていた。フリーターにしておくのは勿体ないぐらいだと井川自身も思っていただけに、彼は裏切られたような気分だった。
「なあ、どう思う?」井川は、女子アルバイトの中でも長い中川紀子を呼び止めた。
「そうですね・・・・最近の男の子、根性ないから」微笑みながら言う紀子。茶色い髪を、後ろで束ねる彼女は、三上たちと並んで井川の貴重な戦力だ。しかし、紀子も今回の三上の欠勤については戸惑っているようだった。
「でも、もし大沢さんに続いて三上さんとなると・・・・」
 首を傾げる紀子。
「どこかの店に引き抜かれたんじゃないですか?二人ともすごく真面目で熱心だったし」
「引き抜き?」
 紀子が頷く。ああなるほど、と井川は思った。そんなことは思いもしなかったが言われてみれば、実際に彼も今のオーナーではなく、他の店に好待遇で誘われたならば行ったかもしれないと思う。大沢にも三上にも、おそらく井川がいなくても店を回すことができるぐらいの能力はあるだろう。しかし、井川はそれでも何か引っかかっていた。
「でも、給料も貰わずに・・・・」
「でもそれは待遇じゃないですか。その分も補償してくれるんだったら私も行っちゃうかも・・・」悪戯っぽい微笑みを浮かべる紀子。前向きで元気印な彼女の存在は、この店にとって不可欠なのだと井川は改めて確認する。スタッフ全体の雰囲気を盛り上げる彼女のような存在は貴重だ。
「おいおい、まさか中川さんも声かけられたなんて言うんじゃないだろうね?」そんなことはないとわかっていつつ、井川は確認するように言う。井川も井川で、店の雰囲気を良くしようと日々考えてはいる。
「さあどうでしょう?ナンパならしょっちゅうされますけど」調子に乗って答える紀子。井川は目を笑わせたまま彼女を睨む。
「でもあたしは店長一筋だからよそへは行きませんよ。それに、三上さんだってまだ辞めたわけじゃないですし。ひょっこり来るかもしれませんよ」悪戯顔の仕上げにそう言う紀子。
「はいはい。ありがと」呆れた顔で、井川は紀子を追い払うように手を振った。調子はいいが、彼女は頼りになる。大沢と三上はそれ以上に頼りになった。改めて、二人の抜けた穴の大きさを認識させられる。
 時計を見る井川。開店時間が近付いている。紀子の言うとおり、三上はひょっこり現れるかもしれない。が、井川は三上がもう目の前に現れないような予感がしていた。そして、今日はもう閉店までこんな事を考えるゆとりはないだろうと思った。


「あの、すみません」
 芦沢は手帳を見せた。店の主人は神妙な顔で頭を下げる。
「この男、見かけませんでしたか?」
 写真を見せる芦沢。店主はその写真に見入り。顔を上げた。
「知ってるよ。宮下隆だろ。こいつが何か?」
「いえ」口ごもる芦沢。まだ何かをしたと確定したわけではない。
「そういえば最近見ないな。一体どこへ行ったんだか」店主は訝しげな顔をして答える。
「最後に会ったのは、何時ですか?」
「さあ、ここ一週間は来てねえな」
「ありがとうございました」
 店を出る芦沢。先日、この町で一つの強盗傷害事件があった。十代らしい少年たち数人による強盗傷害はこのところ頻発しており、容疑者はだいたい同一で、グループもいくつかに絞り込まれてきている。今回も被害者は幸運にも軽傷だったが、被害者の証言から犯行グループがおそらくそのどれかだと推測されたので、芦沢たちはそのグループについて捜査した結果、リーダー格として浮かんだのが宮下隆だった。彼は事件そのものの実行をしているわけではなかったが、芦沢たちは彼を押さえるべく動いていた。その矢先に、宮下は行方をくらましてしまったのだ。
 宮下が消えて間もなく、グループの少年たちは大半が逮捕された。彼らの口からはやはりリーダーとしての宮下の存在がほのめかされていたが、証拠としては疑問があった。何せ彼らも宮下が突然消えたと言い、誰一人としてその行方を知っている者はいなかったのだ。そして、芦沢から見れば、彼らは不在をいいことに何から何まで宮下のせいにしているような感じを受けた。宮下が消えてすぐに、彼らは一網打尽に捕まっているが、捕まったときの犯行は今までの物と比べてひどく雑だった感を受けている。やはり宮下はリーダーなのだろうと、芦沢は思う。だからこそこうしてその足取りを追っているのだが、行方はまったく掴めない。本当に、忽然と消えてしまったのだ。
「どうだ」
 年輩の男、高中に聞かれ首を振る芦沢。芦沢はこの町へ来てからずっと高中と組んでいる。
「まったく・・・最近どうなってんだかな」天を仰ぐ高中。
「何がですか」
「昨日も言ったろ、まあ、昔からそうだったがな、この町は。なんだってこう、人が消えるんだ?宮下はともかく、人っていうのはな、そう簡単に消えるもんじゃねえ。どこかの事務所がやるにしたって、そりゃあよっぽどのことだぜ。それに、こうも綺麗さっぱり、それも何人も消えるっていうのは・・・」
 そのとおりだと芦沢は思った。確かにこの数ヶ月、別に捜索願が出ているわけではないが、人が消えたという話をよく聞く。そして今回顕著なのが、若い男が消えたという話だった。以前、この町で失踪事件が相次いだという話は聞いているが、結局は暴力団絡みの人身誘拐売買事件だった。その東南アジア系の暴力団はほかの勢力にも押されてこの町からはすでに撤退している。それに、その時誘拐されたのは当然ながら若い女性ばかりだった。
 若い女性ならば家族が心配し捜索願も出るだろうが、男だったら・・・・
 幸いまだ死体が発見されたとかそういう事件性の物はない。が、果たしてそれでいいのだろうか・・・
「おいおい、見ろよ」突然の高中の言葉に我に返る芦沢。
「え?」
「あのカップル。最近は女の方が積極的なんだな」
 見れば、一組のカップルがホテルに入っていく。女は妖しげな微笑みを浮かべ、男は・・・・
「でも高さん、あの男、随分顔色悪いですね」
「それもそうだな」
 女を腕に引かれるようにしてホテルに入る男は、どこか顔色が悪く感じられた。だがそれ以上に芦沢が不審に思ったのは、その男の目だった。普通女とホテルに入るのだから、もっと楽しそうな顔や、それともコソコソと周りを伺うような顔、とにかく、感情が露わになった表情が見られてもいいものだと思うのだが、その男の顔は妙に無表情で、その目はどこか虚ろだった。
「まさかクスリ・・・・」つぶやきかけた芦沢を高中が止める。
「滅多なこと言うな。それを言ってたらこの町じゃやってられん。末端を捕まえても無意味だからな・・・・」
 高中の言葉に、芦沢は肯く。高中はベテランだけあって常に冷静だった。
「それよりも、知ってるか」高中が話題を転換する。
「何をですか?」
「そのホテルよ。経営者が変わったろ」
「ああ・・・・」
 その話なら芦沢も知っていた。
「あの、例の風俗嬢・・・・・」
 とある風俗嬢が、貯めた金で自ら風俗店を経営し、それが成功してつい最近、さらにラブホテルを買い取ったという話はこの町では今でもまだニュースな話である。しかし不思議なもので最近彼女を見た者はあまりいない。まあ、自分が稼がなくてもいいので客はもう取らないのだろうが、それはともかく、街の風俗嬢たちから、芦沢はさらに不思議な話を聞いたことがある。
 その風俗店の求人を見たことがないというのだ。試しに芦沢もその手の求人雑誌を見てみたが、確かにどこにも載っていない。一応店では百パーセントスカウトした娘しか出さないということを売りにしているので建前上不審なことはないが、普通はそれでも求人があると彼女たちは言う。さらに彼女たち、特に他の店でナンバーワンになっている娘などは、もしスカウトしただけというならば自分が一度もそのスカウトに声をかけられたことがないのはおかしいというのだ。それは言われてみれば至極もっともに聞こえなくもないが、それも単に別の場所でスカウトしてくるだけかも知れないと言えばそれまでだった。
 とにかく、突き詰めていけばおかしいところはないのだが、ちょっと普通とは違うというのが実状らしい。それも突き詰めれば、経営者が普通ではないのだから普通ではなくても当然だという言い方もできる。
「近所じゃ、あまり評判よくないみたいですね」
「そうみたいだな。でも、経営が変わってからどういうわけかいつもホテルは満室。どういう経営してるのかは知らんがやり手なんだろうな」
 高中が言うとおりだ。このホテル、「ラ・ヴィール」は先日も一部の改装工事を行っているにもかかわらず満室だった。高中の話によると、なにやらゴージャスな社長室を作ったらしい。結局、生き残るのは金のある奴だと高中は思っている。その風俗嬢に対する羨望と、ある種の嫌悪感を感じさせる言い方で、高中はその件を芦沢に言い聞かせた。
 もっとも、芦沢の方もこの話は何度も聞いている。最近の高中の口癖のようなものだ。
「さ、行くぞ。なんとかして、宮下の足取り掴もうや」
 肯く芦沢。高中と芦沢は再び雑踏の中へと戻っていった。


「ふう・・・・・」ため息をつきながら売り上げを集計する井川。
「おつかれさまでした」
「おう、おつかれさん」
 次々とアルバイトたちが帰っていく。残ったのは井川と紀子だけになった。
「なんだ、帰らないのか?」
 手を止めて、井川は紀子の顔を見た。紀子は、疲れた顔に微笑みを浮かべながら、黙って井川を眺めていた。
「ねえ店長」
「ん?」
「座ってもいいですか?」
「ああ」
 井川の隣に腰を下ろして、紀子は井川の仕事を見ていた。いつもと違って、妙に大人しい。彼女は両手をテーブルに組み、俯せに寝るように頭を乗せて井川の方を見ている。
「どうしたんだ?大丈夫か」
「店長、あたし・・・・」
 身体をすり寄せる紀子。そのしぐさが色っぽい。
「おいおい、まだ仕事は終わっちゃ」言いかけて止める。彼にもようやく紀子が求めているものが理解できた。紀子の顔が近付いてきて、目を閉じる。その唇に、井川は自分の唇を重ねた。
 長いような短い時間の後、離れる二人。
「店長・・・・ニンニクの匂いがする・・・」恥ずかしげな微笑みを浮かべながら、紀子は言った。
「いつから・・・?」井川は、思わずそう言っていた。
「もうずっと・・・・ずっと・・・・ずっと前から・・・・」井川の腕にしがみつく紀子。
「大沢さんや三上さんがいるときは、こんなコトできなかったから・・・・」
 そのとおりだったと思う。店を閉めるときは大抵大沢か三上が残って手伝っていた。紀子もこの店に来て長いが、二人きりになったのははじめてのことだったし、井川は、今日まで紀子をそういう風に見たことがなかった。井川は今まで、自分の責務を全うすべく頑張ってきた。周りを省みたのは、本当に久しぶりのことだった。
「すまない。君がそう思っていてくれたなんて・・・・でも、俺は」
「いいの。あたしは・・・・こうしていられるだけで」腕に強くしがみつく紀子。彼女の息遣いが、身体を通じて伝わってくる。
 井川は何も言えなかった。そんな紀子が愛おしく感じられた。自分が彼女にキスをしたのも、あながちその気がなかったとは言えないようだということにも気付いていた。
「腹、減らないか」ようやく口から出たのは、そんな言葉だった。
 ふぅ、と気が抜けたように微笑む紀子。
「こんなに遅く食べたら、あたし太る・・・」
「少しぐらい肉付きよくしてもいいんじゃないか?」ゆっくりと言う井川。
「もう、店長ったら・・・」笑う紀子。いつものにぎやかな紀子とは違う、恥ずかしげな表情がそこにある。と、その時だった。
 カタン・・・・
 入り口の方だった。なにか、ドアを閉じるような音。
「何だろう?」立ち上がる井川。紀子も一緒に入り口の方に行く。人影が見えた。小走りに立ち去ろうとする姿。どうやらそれは女のように見えた。が、背格好からして、従業員の中に該当する者がいるとは思えなかった。
「あの・・・・」井川の声に反応するかのように歩調を早める女。そのままエレベーターに乗り込むと、ドアが閉まった。閉まる瞬間、井川ははっきりとその顔を見た。
「店長、あれ・・・・」
「ああ・・・・」
 二人は、顔を見合わせた。
(そんなはずは・・・・・)お互い、思っていることは同じようだった。が、あえて口に出さずにいる感じだった。我慢しきれずに、紀子が口を開いた。
「店長、今の、大沢さんじゃ・・・・」
「・・・・・」井川は、やはりという風に口をつぐんだ。おそらく紀子は井川に否定して貰いたかったに違いない。しかし、彼はそうすることができなかった。化粧をしているとはいえ、女の顔は大沢に似ていた。見るからに女の体型をしてはいたが、背の高さも同じぐらいだ。
「大沢さんのお姉さんかなにか・・・・」紀子が言いかけるが、井川が遮る。
「彼は一人っ子だ」
「じゃあ、大沢さん、まさか・・・・」不思議そうな、呆気にとられたような顔で、紀子がつぶやく。しかし、井川にはそれは信じ難かった。大沢には付き合って長い彼女がいるのだ。いや、いたといった方がいいのかも知れない。どちらにしろ、大沢は一週間以上姿を現してはいないのだから、何があってもおかしくはない。しかし、井川の常識で考えれば、たった一週間ぐらいで大沢があのような姿になるとは考えづらかった。テレビで見るニューハーフも、体型を女性化するのに時間と金をかけてじっくりと変えていくのだという。そして、あれが大沢なら、一体何の用があったのか・・・・
「まあ、よく似たお客さんが間違えただけかもしれんし・・・」口にして、井川は改めて自分がそう思っていないことに気付く。
「でも・・・・」言いかける紀子に、井川はわかったというように手を出した。
「中川さん、このことは他の連中には内緒だ。いいね」
 井川は直感的にそう言った。なにか、見てはいけないものを見てしまったような、そんな気がしていた。
 肯く紀子。彼女もやはり直感的に、なにかおかしいと思っていた。が、それはあまりにも複雑で、口に出すのはためらわれた。
 無言のまま、席に戻る二人。無言のまま、井川は仕事を片づける。やがて、すべての作業が終わり、井川は、そこを片づけた。
「さてと、送ろうか」ようやく沈黙を破ったのは、井川のその言葉だった。紀子もホッとしたように言葉を返す。
「でも店長、お腹空いてるんでしょ」
 顔を見合わせて笑う二人。
「ラーメンでも食べるかい?」
 楽しそうに肯く紀子。しかし紀子は、その後に付け加えるのを忘れなかった。
「店長、またニンニクどっさり入れるんでしょ」
「こいつ」紀子の鼻をつつく井川。二人は、さっきの出来事がまるでなかったかのようにエレベーターに乗り込んだ。


<第二章>

 コンコンコン・・・・ドアを叩く芦沢。
 返事はない。鍵が掛かっているわけでもなかった。消費者金融ゴールドローンの裏口、それはこの町の中堅暴力団辰巳会の事務所だった。
 朝早く署に電話があった。それも、この事務所からだ。怯えた男の声で、「助けてくれ」と一言だけ言って、電話は切れた。電話番号は通知でなかったが、なんとか割り出してようやく芦沢たちがここへ駆けつけてきたのだ。
「入るぞ」部屋に入る芦沢と高中。
「う!」
 鼻を突く血の匂い。血の海の真ん中に中年の男が、腹にドスを刺されて倒れていた。その横に、血の気が引いたような顔で男が一人座り込んでいる。
「おい、救急車!」高中が叫ぶ。芦沢が、慌てて携帯電話をプッシュした。
「一体何があったんだ?」呆然と座る男の顔をのぞき込む高中。しかし、男は答えない。
「おい、どうしたんだ!」男の両肩を掴み、高中は揺さぶった。それでも男は反応しない。やがて、男はまったく抑揚のない声でぽつりと言った。
「組長を刺しました」
 驚いたように男の顔を見る高中。
 やがて、救急車と、ほかの関係者が押し寄せてきた。組長はすでに死亡しており、男は緊急逮捕された。現場検証の結果、部屋には多数の人間が入った形跡があったが、組長と思われる一人以外はあまり動き回っていないようだというのが一応の見解だった。
「みんなでよってたかって組長を刺したっていうんですか?」
 芦沢はその報告に耳を疑った。
「はい。争った形跡は、ほとんどありません。しかし、そこを囲むように大勢の人間がいた形跡があります」
「他の組員たちはどうしたんだ?」
 同僚の谷口が答える。
「行方不明さ」
「行方不明?」
「どこかへ逃げているのか・・・・しかしな、ここの組員の顔は大概押さえてあったんで、周りじゅうに頼んで手配はして貰ったんだが・・・・今のところまったく誰一人として手掛かりがない。家族たちですらわからんというんだからな」
「大量、失踪?」
「そうかもしれんし、そうでないかもしれん。それよりも」言いかけた時だった。
 RRRRRRR・・・・・携帯が鳴る。芦沢が取ると、先に署に帰った高中だった。
「すぐ戻ってこい。男が自殺した」
「なんですって!?」
「聞いてのとおりだ。トイレに行くと行って、個室の中でベルトで首を吊りやがった」
「すぐ戻ります」
 署に戻ると、署の周りは報道陣でいっぱいだった。それをかき分け中に戻る芦沢。
「高さん」
「ああ、やられた。俺の失敗だ」
 高中は男を尋問していたのだが、男は「組長を刺しました」と繰り返すばかりで、結局何も聞き出すことはできなかったのだ。
「本部が動き出した・・・・俺は当分動けん。悪くするとクビだ」
「高さん・・・そうだ、それより」
「なんだ?」
 芦沢は、組員たちが行方不明になっていることを告げた。
「何だと?」
 考え込む高中。
「よし、こうしよう。アシ、おまえパソコン得意だろ。どうせ本部が出てきたら俺たちはお払い箱だ。その間におまえ、行方不明者と捜索願の出ている分の数をまとめろ。その失踪、宮下の件と何か関係あるかも知れねえ」
「わかりました」
 サイレンの音が聞こえる。本部の連中が署にやって来たのだ。
「頼んだぞ。なんならいっぺん消えろ。俺が奴らの相手はする」
 芦沢は頷くと裏口へ向かって走った。谷口が一緒に走ってくる。
「芦沢、ちょっと当たりたいところがあるんだがな・・・・」
「何?」足を止める芦沢。
「横山組だ。あそこ例の、ホテルの時に辰巳と揉めただろう」
「なるほど・・・」
 例の元風俗嬢、月城瞳がホテル買収の時、横山組と辰巳会が睨み合ったことがあった。もともとホテルは辰巳会系の経営者だったのだが、これを機会にホテルを縄張りに置こうと横山組は瞳にだいぶ接近したらしい。そこで両組は一触即発のところまで行ったのだ。瞳は横山組を相手にせず、辰巳会の方もうまく丸め込んで一件落着したということであるが、現実的に裏では一つや二つ流血沙汰があったようではあった。
「ところが最近、その横山組がてんで大人しいらしい。と言うより、全然聞かなくなったという方が正しいな」
「どういうことだ?」
「俺たちも、問題がなかったし他も忙しかったからあまり構わなかったんだが・・・気にならないか?」
「ああ。でも何といって行く?」
「簡単じゃねえか。辰巳会の件について御意見を伺いに行くのさ」
「なるほど・・・でも大胆だな」
「今ならどさくさに紛れて踏み込める。俺はむしろ、大人しくしたフリして裏で何か企んでるんじゃないかと思ってな。もしかしたら、宮下なんかも匿っているかもしれんぞ」
 芦沢は思った。谷口は口が巧い。しっかり自分をその気にさせている。だがそれを断る理由もなかった。今署内は本部が来てバタバタしている。今のうちなら課長らの目も届くまい。それに本部のデータベースにアクセスするにも署内にいて雑用に使われてはそうそうできるものではない。
「よし、行こう」
 谷口はニヤリ、と笑うと芦沢を手招きした。谷口は今までずっと横山組をマークしていたが、このところ大人しいので他の件に回されていたのだ。
 街に潜る二人。芦沢は携帯の電源を切った。


 中野茂は、町をぶらぶらと歩いていた。まだバイトの時間には早い。
 最近家にいてもまったく面白くない。兄が失踪して以来、両親は少し落ち着いたとはいえ未だに立ち直っていない。特に父親は警察に何度も何度も捜索を頼み込みに行って、最近では追い返されるように帰ってくる。母親はもう警察に頼むのは諦め、怪しい神憑りだのに頼んでいるほどだ。
 兄は、彼から見れば絵に描いたようなエリートだった。一流の大学から一部上場の大企業に就職して二年。かなりハードな生活なのは想像できたが、兄はいつも充実しているように見えた。茂にとっては、そんな兄はいつも憧れであり誇りであった。
 家族に対しても、兄は優しかった。先日もわざわざ同僚たちを連れて茂のアルバイト先の居酒屋に来てくれた。しかしその後数日して、兄は失踪したのである。
 失踪する前、兄は口に出さないがひどく顔色が悪かった。が、自分では気にする風でもなくむしろ生き生きと会社に出かけていた。茂も兄の仕事場へ行ってみたが、兄が急にいなくなったので非常に困惑している風だった。
 日が翳っていく。そろそろ店に行かなくてはならない。と思い、振り向いたときだった。急に振り向いた彼は、何かにぶつかり尻餅を付いた。
「バカ野郎!どこ見て歩いてやがる!」
 体格のいい男が、彼を睨むと歩き去っていった。
「いたたた・・・・」
 地面が少しベタついている。電柱の横、今は何もなかったが、どうやらここはゴミ収集場所のようだった。看板が目に入る。そして、彼の目にそれが入ってきた。
 それは、まるで片付け損ねたようにそこに落ちていた。かなり塵まみれになった金色のボールペン。道の、本当に端の端、大きなダストボックスの脇にそれはひっそりと落ちていた。拾い上げる茂。彼はそれに見覚えがあった。
 それは・・・・兄がいつも持ち歩いていたペンだった。小学校の時の卒業祝いか何かで貰ったような物だったと思う。兄はそれをいたく気に入っていて、インクを入れ替えながらずっと使い続けていた。そういうところも、茂が兄を尊敬するところだったし、茂自身も小学校卒業時にそういうペンを親にねだった。
 塵を払って、ペンをよく見る。そこには、イニシャルが刻んであった。K・N、それは、見間違いようがない。いつか兄に見せて貰ったときのとおり、あの格好いい書体でそれは刻まれていた。
(兄貴の・・・・でも何故ここに・・・・)
 見上げる茂。そこには、ホテルが建っている。茂は利用したことがないが、ラブホテルというのだろう。ピンク色のネオンが、「ラ・ヴィール」という文字を輝かせている。どこが入り口かもよくわからないその建物を、茂はじっくりと見つめる。
(もしかしたら・・・)
 まだ彼の頭の中ではまとまらないが、直感的に彼は何か兄の身にとんでもないようなことが起こったような気がした。
(後で、ここの警察に行ってみよう)
 彼は思った。地元の警察はもう彼らを相手にしてくれない。が、この町の警察ならば相手にしてくれるかもしれない。
 とりあえず彼は立ち上がった。アルバイトの時間が迫っていた。彼のバイト先は、急にベテランが抜けてしまったため今大変なのだし、抜けることはできない。もっとも、今日は火曜だから、そんなに忙しくはないだろうが・・・。兄のことは心配だったが、逆に店長にでも相談すればもっといい結果が出るかもしれない。店長は彼らアルバイトたちにとって兄貴分のような存在だ。
 彼は、汚れたズボンを払うと街を駆けだした。


「おい芦沢・・・・」
「ああ」
 芦沢と谷口は、呆然と立ちつくしていた。横山組の事務所は、まるで廃墟のような有様だった。もうおそらく一週間は誰も使っていないのであろう。テーブルやソファにも埃がうっすらと積もっている。
「馬鹿な・・・奴ら一体どこ行ったっていうんだ」
 争った形跡などはない。ただ、急に人がいなくなったのは確かだった。灰皿には、いつ吸ったのかわからない吸い殻がたくさん突っ込まれている。
「こりゃあ、だめだ。なにがなんだかわからん」頭を抱える谷口。
 とりあえず事務所を出る二人。外はもう暗い。せっかくごった返す署を抜け出してきたのに、彼らは何も掴むことができないでいる。さらに、横山組の不可解な様子が、谷口をなおさら苛立たせていた。
「谷口」
「おう、芦沢、おまえはいっぺん署に戻れよ」
「おまえは?」
「ちょっと心当たりをあたってみる」
「一人で大丈夫か?」
「ああ。とりあえず危害を加えられるようなところじゃない。顔見知りのところで少し聞き込んでみる」
「聞き込みなら俺も」
「駄目だ。二人で行くと署に問い合わせが行くかもしれん。一人なら、ああまたいつもので済むんだ。だから、おまえは署で例のデータベースをあたれ」
「わかった。気を付けろよ」
「ああ」
 谷口は手を振ると雑踏の中に消えた。芦沢は、ため息をつくと署に向かって歩き出した。


「なるほどな・・・・」
 店はすでに開店している。そのプラランの店内、厨房の脇で、井川は立ったまま中野茂の話を聞いていた。その横を、他の店員たちが二人をちらりと見ながら忙しく行ったり来たりしている。
「うーん・・・」
 井川は頷いた。アルバイト、中野茂の言うことはよくわかる。そして、その話を聞いた井川は他のことを思い浮かべずにはいられなかった。
(大沢や三上と同じ・・・・?)
 三上は結局今までのところ姿を現さない。そして、三上も、今思えば大沢も、中野の兄同様、自分では意識していなかったようだが顔色が悪かった。そして、顔色が悪くなって数日後に失踪している。
 両手を組んでしばらく考え込む井川。紀子が心配そうな視線を井川に投げる。さっきからだいぶ深刻な話をしているのを紀子は察しているようだ。彼女は自発的かつ積極的に店内の動きを仕切っている。精一杯井川のフォローをしているつもりなのだ。
(一体何が・・・・)
 井川は、茂の言った「なにかとんでもないこと」というのが妙にひっかかった。確かにゴミ捨て場にあったペンのことを考えれば、茂がそう考えてもおかしくない。他はともかくこの町でならそういう「とんでもないこと」が、自分に関わってこないにしても結構頻繁に起きている。そして、それが自分に降りかかってこないとは限らないのだ。もしかしたら、それがいよいよ自分に降りかかってきたのだろうか・・・
「俺もこっちの警察に行くのは正解だと思うよ」井川はようやく考えをまとめたように言った。
「でもそれ、今日店が終わってからにしないか?」
「はい」しっかりと返事をする茂。
「それでだ、俺も一緒に行くが構わないか?」
「え?」
 茂の表情が変わる。井川の言葉に、少なからず驚かされたようだ。
「ちょっと俺も、警察に聞きたいことがある」
 井川は、茂にかこつけて警察に行くことにした。三上も大沢も、未だに連絡が取れない。彼らが事件に巻き込まれた可能性というのは、高いとは思えないがこの町では決して低くはないのだと彼は再認識していた。
 茂の驚いた顔に向かって、彼は言った。
「じゃあ、今日終わってからな」
 茂の肩にポンと手を置く井川。茂はどう答えていいかわからないような風で、とりあえず、はい、と返事をした。
「さ、仕事に戻ろう」井川に促されて、動き始める茂。井川はその向こうに、紀子を発見した。ごめん、という風に手を上げる井川。それを見て、紀子はどういたしまして、という風に首を傾げて微笑んだ。その笑顔が、とても愛らしく感じられるのは気のせいではないようだ。
(どうも、俺まで本気になっちまったみたいだな・・・・)井川は困ったようなホッとしたような複雑な心境で仕事に戻った。


 日が、建物の間に沈んで行く。街灯がちらほらと光り始めていた。
 谷口はあるマンションのエレベーターを上がっていた。決して高くはないが、安くはないマンション。月城瞳は、ここの最上階に住んでいる。この町に突然現れ、あっという間に風俗界のアイドルとなった彼女は、その後しばらくして風俗店の経営者となり、やがてラブホテルまでもその傘下に収めた。谷口は、密かにその裏になにか資金源があるものと思って調べていたが、そのような形跡は掴むことができなかった。彼女の収入は少々これ見よがしな感はあったがちゃんと申告されており、税金もきちんと納めている。その収入源に不審な点はない。彼女の店もとりあえず違法行為も認められないし、風俗雑誌にも優良店として紹介されている。
 しかし・・・・
 谷口は、それでも彼女の裏にはなにかがあるものと思っていた。暴力団か、それとも政治家か、はたまた企業家か・・・とにかくバックに資金源があり、それが彼女を利用しているのか、それとも彼女がそれを利用しているのか、とにかく、谷口にしてみれば辻褄が合いすぎていて逆に怪しいと思えるのだ。
 以前の辰巳会と横山組の件といい、谷口の直感では、瞳が何かの鍵を握っていると思える。彼女が現れてから、横山組は静かになり、そして、辰巳会を異変が襲った。まるで無関係とは到底思えない。谷口には、彼女が裏で糸を引きつつ双方を潰したように思えた。そしてその裏には・・・・
 エレベータを下りて、ドアの前に立つ。ゆっくりと深呼吸をして谷口は呼び鈴を押した。
 一回、二回、三回・・・・返答はない。どうやら留守のようだった。前に谷口がここに来たのは、まだホテルの買収が決まっていない時のことだった。当時ならこの時間はまだ出勤前で必ずここにいたのだが、どうやら生活パターンが変わったらしい。
(とんだ無駄足だったな・・・・)彼は考えた。ここにいなければたぶん店か、ホテルかどちらかのはずだ。それでいなければ仕方がない。
 彼は、とりあえずホテルに向かうことにした。


「ねえ店長」紀子が井川を呼び止める。
「川本君・・・・なんか顔色悪くないですか」
 紀子に言われて、井川はアルバイトの一人、川本純一を見た。仕事している様子には特におかしなところはなかったが、どことなく、疲れている風だった。
「きのうもなんかそんな感じがしたんですけど、昨日よりもひどいような気がして」
 紀子に頷く井川。
「わかった。おい、川本君」紀子に仕事に戻るように言って、川本を呼ぶ井川。紀子と入れ替わりに川本がやってくる。近付いてくればなるほど、顔色が悪い。
「はい、何でしょう?」少し青白い顔色とは裏腹に、元気に返事をする川本。
「大丈夫か?」心配そうな顔をして言う井川。
「え?」川本は、そういわれたのが意外だったようだ。「何でですか?」
「いや、何となくしんどそうだったからな」
「いえ、全然」川本は、本当に意外なようだ。そう言われる理由がわからないと言った表情で、不思議そうに井川の顔を見ている。しかし、どう見てもその顔色は悪いように見えた。
「本当か?なんか顔色悪いぞ・・・・」もう一度、井川は川本に確認した。
「ああ、そういえば昨夜、だいぶ遅くまで起きてましたから・・・・寝不足が顔に出たのかな?」
「そうか、ならいいんだが」
 紀子が、心配そうに井川の方をちらちらと見ている。紀子の言いたいことはわかっていた。川本の様子が失踪する前の三上と同じだと言いたいのだ。実際井川もそう思う。三上もやはり、顔色は悪かったが様子は元気だった。
 井川は、調子が悪くなったら無理するな、とだけ言って川本を仕事に戻した。さりげなく、紀子が近寄ってくる。
「どうでした、川本君」心配そうな顔の紀子。井川は昨日、オーナーに頼み込んで求人広告を出して貰っている。ここでもう一人でもアルバイトが抜けるとさすがに辛いのは紀子も承知している。紀子はそれでもシフトで休んでいたが、井川は休んでいないのを彼女はよくわかっていた。
「ああ、何でもないとは言ってたが・・・」考え込む井川。彼には、常に自分が下の者を上手く統率できていないのではないかという漠然とした不安がある。今でも心のどこかに、「自分が無能なので大沢や三上が辞めたのではないか」という疑念があるのだ。紀子にも、井川がそう考えているのはわかる。井川は、下の者によく気を使う頼りがいのある店長だった。だからこそ店の士気は高い。紀子はじめ女子アルバイトの中でも、オーナーに対する不満はあれども井川に対する不満は上がったことがない。
「みんな疲れてるんですよ、きっと。でももう少ししたら新しい子、来ますよね?」
 紀子は努めて明るく井川に言う。それは希望的な観測ではあったが、井川にはその紀子の気遣いが嬉しかった。
「ありがとう」微笑む井川。紀子は、どういたしまして、と首を傾げると、照れたように仕事に戻っていった。
(次の休みに、彼女をどこかに誘おうか)井川はそんなことを考えている自分を見つけ、苦笑した。そして気付いた。井川は、仕事場以外での彼女のことをよく知らない。そんな仕事場以外での彼女の姿を、彼は見てみたいと思った。


(妙だな・・・)
 谷口はそう思った。月城瞳のホテル「ラ・ヴィール」に入ろうとした彼とすれ違いに、女が一人で出ていく。周りから見れば男一人で入ろうとする谷口もおかしく見えたかもしれないが、彼には女が一人で出ていく方がよほどおかしな気がした。
(ま、いい)彼は、気にしないことにした。そんなことよりもここへ来た目的は瞳に会うことなのだ。
 フロントの前に立つ谷口。フロントも、若い女だった。
「社長に会いたい」谷口は、無造作にそう告げた。
「失礼ですが、どちら様でしょう」
 女の問いに、彼は懐から手帳を出して答えた。女は手元の受話器に手を伸ばすと、番号をプッシュする。
「社長に警察の方がみえられてますが・・・・」女が告げる。女は二、三回頷きながらハイと、返事をして受話器を置いた。
「六階の社長室へどうぞ」
 谷口は言われたとおりエレベーターに乗り、六階で降りた。六階には客室はない。エレベーターを降りると、そこには大きなドアがあった。彼は、それをためらうことなくノックした。
「どうぞ。開いてますよ」
 女の声がノックに答える。無造作にドアを開けて、谷口は部屋に踏み込んだ。
「ああ、谷口さんだったの。久しぶりですね」
 その女、月城瞳はソファに座ったまま谷口を迎えた。風俗雑誌に載っていた頃と変わらない、いやむしろさらに磨きが掛かったともいえるその美貌とも違う色気に、谷口は思わずたじろいだ。
「で、今日はどんな御用でしょうか」
 ソファに座るように促す瞳。谷口はそれに従った。身体を包み込むような座り心地のいいソファだ。谷口はこんなソファには座ったことがない。
「ちょっと聞きたいことがありまして」
「どんなことかしら?私で役に立てること?」
 瞳は微笑みを絶やさぬまま谷口を見つめる。
(この女は、男の騙し方をよく知っている)谷口は思った。この微笑みで見つめられて、気分が悪くなる男はいない。
「実は、辰巳会の会長が殺されまして・・・」
「知ってます」社長とはいえ、彼女は若い女だった。飾らない話しぶりの随所にそれが感じられる。
「で、ですね」谷口は言葉を切った。
「はい」
「それはともかく、横山組の方を当たってはみたんですが、実は横山組には誰もいなかったんです。まるで夜逃げでもしたみたいに」
「はあ」瞳が、怪訝な顔をする。
「で、月城さんにはなにかご存じでないかと思いましてね。横山組さんとはまったく知らぬ仲でもないでしょうし。辰巳会も」
「うふふ・・・・」気が抜けたように笑う瞳。
「おかしいですか?」谷口は瞳の反応を予想していたので、それに合わせる言葉をすぐに吐いた。
「おかしいも何も・・・・私、あのおじさんたちには興味ないもの」
「というと?」
「知らないわよ。おじさんたちの行方なんて」笑いながら言う瞳。
「でも」
「でも?」谷口が身を乗り出す。
「おじさんたちじゃなければ、知らないでもないわよ」
 谷口は戸惑った。瞳が、まるで謎かけをしているような顔をしている。
「どういった意味でしょう」谷口は、動揺を隠すように言った。この女はやはり何か知っている。しかし、それを彼にほのめかすというのは、どういう意味なのか・・・谷口は、言葉の意味よりもむしろその意味の方が知りたかった。
「別に深い意味はないけど」まるで他人事のように言う瞳。
「ただ、わたし自分勝手なおじさん、嫌いだから。若い子ならまだかわいげがあるけど欲の皮突っ張ったおじさんなんて、救いようがないわ」
 微笑んだまま、言い放つ瞳。谷口はその目を見て背筋に冷たいものを感じた。瞳の目が、狂ったような、嘲るような光を帯びている。
「お時間取らせてすみませんでした」立ち上がる谷口。今の段階でこれ以上彼女から何かを聞き出すのは無理そうだった。時間をかけてゆっくりと攻めていけばいい。谷口は今日の訪問を切り上げることにした。
「谷口さん」
 瞳が、座ったまま呼び止める。
「はい」振り向く谷口。
「ウチの店にも一回遊びに来てよ。イヤなこと全部忘れさせてあげるわ」
 谷口は一礼すると社長室を後にした。


 端末のキーボードを叩く芦沢。署に戻ると、案の定署内は半ばパニック状態だった。署内の同僚たちも仕事に追われ、手伝わせようと芦沢に状況を説明する暇もない。芦沢には都合のいい状態だった。その芦沢を見て、動き回っている高中がニヤリ、と微笑む。
(頼むぞ)
 高中の微笑みが、芦沢にそう伝えている。そんな状況の中、芦沢はデスクのパソコンを操作していった。
 失踪届や捜索願のデータを種類別に検索していく芦沢。彼は管轄内だけでなく、本部管内のすべてのデータを収拾していた。この町は、そこら中から人が集まってきているのだ。それだけでもまだ足らないかも知れない。とりあえずその数字だけをメモしていく。
(なるほど・・・・・・・)
 確かに、届け出自体は増えている。そして、噂以上に男性、特に若い男性についてのものが多い。届けが出ている者だけでも、この数ヶ月間でだいぶ増えている。下は高校生から上は老人まであらゆる種類の男性の届け出があったが、その中でも若い、十代後半から二十代前半のものは、すでに前年の同時期の三倍に達していた。もしこれが何かの事件だとすれば、高校生ぐらいのものはともかく二十代前半のものについてはおそらくこの数倍は失踪している者がいるのではないかと芦沢は思った。若者が一日や二日連絡が取れなくとも、男性の場合は一般的にあまり心配されない。そして、いよいよ失踪したと思われるときには、得られる手掛かりは少なくなっている。さらに悪いことには、芦沢たちも捜索願を受けてもそれに割ける時間があまり取れないのだ。
(一体何が起こっているんだ・・・)
 芦沢はモニターの前で首をひねった。失踪者の傾向的に、若い男性の者が異様に多い。彼は失踪者に共通するものがないかどうか、データをプリントアウトする事にした。


 彼が最初に感じたのは、体中を何かに覆われているという感覚だった。そして、全身に感じる何とも言えない違和感。顔も何かに覆われているようだったが、彼はゆっくりと目を開いた。やはりと言うべきか、目の上を塞ぐなにかが崩れて、粉のように目に入る。彼は慌ててもう一度目を閉じた。どうやら仰向けに横たわっているようなのは理解した。
 今度はゆっくりと右腕を動かしてみる。まるで新聞紙に埋もれた中から這い出るように、腕は上にあがった。その、身体を覆う何かから腕が抜け出た瞬間、彼は、今までにない軽さを腕に感じた。恐る恐る両腕を動かしてみる。腕は自由に動いた。彼はそれを確認すると上半身を起こし、自分を覆っている物を引き剥がそうと、腕で頭から払っていった。身体を覆う物が、ガサガサバラバラと、まるでお菓子のミルフィーユのように崩れていく。顔の周りを払っていると、彼にはその顔が、自分で憶えているよりも随分細く小さいものに感じられた。そしてやがて、大方顔のまわりを払い終わり、彼は改めて目を開けた。
 はじめに目に入ったのは、自分の下半身を覆う、菓子のようなものだった。上半身を払った際に感じたミルフィーユのような感覚は、あながち間違ってはいなかったらしい。そして彼は、ゆっくり周りを見回した。
 彼が寝かされていたのは、その、ワンルームかホテルのような部屋のベッドだった。トイレとバスルームはあるようだが、台所は見当たらないのでたぶんホテルなのだろう。布団は掛けられておらず、彼はベッドの上に被せられたビニールのシートの上に寝かされていたことに気付いた。
(これだけゴミが出るんじゃ仕方ないな・・・・)自分の身体からはがれ落ちた謎の物体の滓を見回して彼は思った。これではまるで彼をてんぷらか何かにしようとしたみたいだ。そう思いながら見回す彼の目が、やがて見慣れない物を捉えた。
 それは、申し訳なさそうに彼の胸から盛り上がっていた。その先端には、ピンク色をした突起物がやはり申し訳なさそうに飛び出している。
「ん!」
 思わず漏れた声が、掠れているような気がした。少なくとも、いつもの自分の声ではない。
 彼は慌てて下半身を覆う物を払っていった。それは瞬く間に塵となり、中から彼の下半身が現れた。そしてそれは、彼の見慣れたものとはまったく違う。細い脚には毛が生えておらず、それは腕にしても同じ事だったのだが、足の付け根の中央部も、彼が憶えている自分のものとは決定的に違った。そしてそこにも体毛は生えていない。彼は否応なしにそこが何なのか認識せざるを得なかった。
「まさか・・・そんな・・・」口からもう一度驚いた声が出る。間違いなかった。それは彼の声ではない。掠れてはいたが、彼の憶えている自分の声よりも、それはいくらか高い声に思えた。
 彼はもう一度自身を見回す。そして、認めたくないその結論に達した。
(俺は・・・・女になったのか・・・・)
 全身の違和感が、それを裏付けていた。その身体は、どう考えても女だ。そうとしか思えない。
 突然、ドアが開いた。彼はその、小さな胸を隠すでもなくベッドの上に座ったまま呆然と、部屋に入ってきた女を見上げた。
「気がついたようね・・・・三上君」女は、ベッドで呆然とする女、三上正一だった者に向かってそう言った。
「俺は一体・・・・」掠れた声で言う三上。三上には、まだ自分の置かれた状況がまったく理解できていない。
「あなたは、生まれ変わったのよ。私たちと同じ、女に」女ははっきりとそう言った。
「あんたは?」
「わたしは瑠璃。言葉遣いには気を付ける事ね。見てのとおりあなたはもう女になったのよ。そしてこれから普通以上に女として振る舞わなければならないの。あなたはとても運がいいのよ。こうして生まれ変われるのは、何人かに一人ぐらいなんだから。いい、あなたがこれから生きていく上で必要な事は私たちが教えてあげるわ。そしてあなたは、これから美香という名前で過ごすのよ」
「そんな、いったいどうなって」三上は、自分が認めたくなかったことを容赦なく突きつけられパニックに陥った。これは何かの間違いであり、本当の三上はやはり男なのだという希望は目の前で完全に否定された。
(なぜ・・・・)頭を抱え込む三上。
「よく聞きなさい、美香」瑠璃、と名乗った女は諭すように三上の隣に腰掛けた。
「あなたはもう女になったの。これは動かし難い事実だわ。そして、あなたは普通の女ではないの。とりあえず、自分の滓を片づけなさい」
 瑠璃は、ベッドの上を指した。ビニールシートの上に、三上が散らかした滓が散らばっている。ベッドの横に、なぜかごく普通の箒とちりとりが置いてあった。そして、大きな黒いゴミ袋も。三上をここに寝かせていた者、おそらく瑠璃は、こうなることがわかっていたのだ。そして、果たして三上は瑠璃の思ったとおりになった。
「それは、あなたの男だった時の滓よ。掃除が終わったら、シャワーを浴びて、これを着なさい。それから、あなたを食事に連れていってあげるわ」
 瑠璃は、そう言って三上に紙袋を渡した。中には、女物の洋服が入っている。もちろん下着も。三上は、そこで自分が裸であることをはじめて認識した。羞恥心が込み上げてくる。三上は無意識のうちに、胸を隠すように腕を組んだ。
「いいわね、あなたはもう女になったの。男には戻れないわ。大丈夫、心配しなくても、食事をすればイヤでもどんどん女らしくなっていくんだし。だから、もう自分が男だった事なんて綺麗さっぱり片づけてしまいなさい。あなたのためよ」
 瑠璃の口調は、有無を言わせぬものがあった。ゆっくりと頷く三上。瑠璃は三上を抱きしめ、「いい子ね」と言うと部屋を出ていった。
 三上は、瑠璃に言われたとおり、ベッドの上を片づけはじめた。とりあえず、外に出るにも裸ではどうにもならない。そして、服を着るにもとりあえずシャワーでも浴びなければ、身体にまとわりつく不快感が取れない。瑠璃の言うことに従うのは、まっとうな選択のように思えた。
(だいたい、他にどうしろと言うんだ)三上は思った。


 谷口は、「ラ・ヴィール」の出入りを監視していた。さっきの瞳の雰囲気から、彼女が何かを知っているのは間違いない。もしかしたら横山組か辰巳会の者が出入りするかもしれないという希望に近い推測もあった。が、ホテル街の中で、男一人で佇むのは厳しかった。目立たないようにしても目立ってしまう。そして、とりあえずこの数時間のうちに彼が望むような者の出入りは認められなかった。
 すでに日は沈み、春の夜特有の冷たい風が吹いている。しかし、この数時間で気付いたことがいくつかある。このホテルは女性だけの出入りが異常に多いのだ。そして、まああまり表示も変えないのではあるだろうが、客が出てきても入っても、入り口にはいつも「満室」と掲げてあった。女性は従業員なのかもしれなかったが、それにしても、若い女性だけの出入りが多い。それに比べれば、本来多いであろうカップルでの出入りはあまり目立たなかった。
(何かおかしいな・・・)谷口が思うのも無理はなかった。男性の出入りがあまりにも少なすぎる。最近は無店舗型の風俗店も増えているので、男性単独の出入りはわかるが女性単独の出入りの方が断然多かった。それだけではない、さっきから、彼は何かその女たちに違和感を感じていた。ホテルに出入りする女たちが、何かおかしい気がする。と思っているそばから、また女が一人で出て来た。白いブラウスの下に、ブラジャーが透けて見える。
(ん・・・?)谷口は、なんとなく自分が感じていた違和感の原因が分かった気がした。目を凝らす谷口。しばらくすると、また一人女が出てきた。今度は、ポロシャツにパンツという姿だ。
 谷口は、自分の服装を確かめた。ワイシャツの上に羽織っているのはコートだ。まだ、コートなしで夜出歩くには少し肌寒い。まあ、コートまではいらないにしても、何か上に羽織るものがないと、鳥肌が立つぐらいの気温にはなっているはずだ。
(なんであの女たち、みんなそんなに薄着なんだ?)
 ホテルに単独で出入りする女たちは、なぜかどの女も薄着だった。
(こりゃあ、何かある)
 谷口は身を翻し、ポロシャツの女を尾行することにした。その後ろに、彼を見張る影があった。


 美香は、瑠璃に言われたとおり女物の服装をして待っていた。というより、シャワーを浴びた後着るものは他にはなかったのだ。はじめて付ける女性の下着を美香は戸惑いつつ慣れない手つきで身につけ、そしてやはり慣れないブラウスに袖を通した。全身に感じる違和感は目覚めたときよりも大分軽減している。その代わりに、女の服を着た途端今度は心地よい肌触りとともに全身が締め付けられるように感じられた。最後に、左右が逆になったボタンを締める。鏡の中に、どう考えても女にしか見えない自分らしき者がいた。
 美香は、徐々に自分の状態を把握しつつあった。まだ困惑から抜けきらないが、どうやら理由はわからないが自分が女になってしまったらしいことは理解できた。そして、どうやらそれが夢ではないことも。そして、感覚の中に残っている妙な違和感。
 しかしその違和感は、美香が男でなくなってしまったこととは別のことのように思えた。裸でいたときから、美香は全然寒さを感じなかった。そして反対に、シャワーを使うために出した湯が、耐えきれないほど熱かった。すぐに温度を下げたが、ちょうどよいと思った温度は、三十六度ぐらいだった。美香は、シャワーの温度調節機能が壊れているのだと思った。三十六度なんて、どう考えてもぬるま湯だ。朧気にそんなことを考えながら部屋に戻り、エアコンを見ると十六度に設定してあった。十六度でエアコンをかけたら寒いに決まっているのに、と思ったが、やはり裸のままで寒くはなかった。そして、服を着るとそれでも少し暑い感じがした。
 そうしているうちに、だんだんと記憶が蘇ってきた。あれは仕事の帰りだった。いきなり知らない女に声をかけられた。というより、知らない顔ではないような気がしたのだ。美香、いや三上は、和恵と名乗るその女に連れられるままホテルに入ったが、どうしてもそれが誰だかは思い出すことができなかった。彼女が首に腕を回して三上にキスした瞬間、全身に電流が走ったような気がして、まるで酔っぱらったときのようにとても気分が良くなった。それからは彼女のなすがまま・・・・しかし、彼女のとった行動は奇妙だった。彼女は三上の服を脱がせると、三上の下半身に顔を埋めた。そこからはもう言い表しようのない快感が三上を支配し、三上は何をするでもなく、いや何をすることもできずに彼女に身を任せた。やがてその行為が終わると、彼女は三上に言った。明日も同じ時間に同じ場所で、そしてこのことは誰にも言ってはいけない。明日自分に会うまでは忘れているように・・・・
 実際に、翌日三上は仕事を上がるまでその事を忘れていた。そして、仕事帰りに忽然とそれを思い出し、待ち合わせ場所に行った。そこには、前日言われたとおりに彼女がいた。そして、彼は前の日と同じように彼女とその奇妙な行為を行った。三上にはあまりに心地の良い陶酔感だけが残った。
 二、三日そんなことが続くうちに、三上はその顔を思いだした。和恵はバイト仲間の大沢にそっくりだったのだ。しかし、だからどうと言うことはなかった。大沢が女になったなどということはあまりに馬鹿げた想像だった。もし仮にそうだとしてもなぜ大沢がそうなったのか聞く気も起こらなかった。和恵の与える快楽は三上の思考を奪い、彼女が囁く言葉に三上は逆らうどころか疑問すら抱く事ができないほど従順になっていた。そして、三上は和恵とその奇妙な行為の最中、猛烈な眠気と怠さに襲われそのまま意識を失った。
「入ってもいいかしら」ドアの向こうから声がした。美香がどうぞ、と答えると瑠璃がもう一人の女を連れて入ってきた。もう一人の女は、和恵だった。
「よかったわ、美香」和恵が言う。
「他の人みたいに干からびちゃったらどうしようかと思ったもの。羽化してくれて嬉しいわ」
「羽化?」
「私たちはそう言っているわ」瑠璃が言った。
「男から、私たちの仲間に変わる通過儀礼みたいなものよ。蛹の状態から美しい姿に脱皮するの。あなたもさっき脱ぎ捨てたでしょう?あれはあなた自身の皮みたいなものなのよ」
 美香は思い当たった。あの、ガサガサした身体を覆う物体。あれは、自分の肉体の一部だったのだ。
 瑠璃が続けた。
「その、蛹になる時点で、ほとんどの者はそのまま干からびて死んでしまう。死んだら塵になるだけ。だから、あなたは運がいいの。選ばれたのよ」
「おれ、わたしは、選ばれた・・・・」
 無意識に、言葉を直してしまう美香。自分でも、今の姿で「俺」と言うのは抵抗があった。
「これからは、和恵ちゃんがあなたにいろいろと教えてくれるわ。和恵ちゃんはとてもお利口で優秀だから。あなたも和恵ちゃんの言うとおりにすれば立派な仲間になれるわよ」
 俯く和恵。それが何を意味するのかは美香にはわからなかった。
「向こうで待っているわ。和恵ちゃん、彼女を頼むわね」そう言い残して、瑠璃は部屋を出ていく。
「大沢?」美香は、和恵に会ってはじめてそう聞いてみた。
「やめて。もうそんな名前意味がないわ。わたしは和恵。大沢弘だったことは否定しないけど」
 和恵の目は冷たかった。
「そんなことより、もうこれからはわたしたちの仲間として生きて行くしかないのよ。それを理解してね」
 気圧されたように頷く美香。和恵に促されて、鏡の前に連れて行かれる。
「明日か明後日までは面倒見てあげられるけど、そこから先はもうあなた一人でやって行かなくてはいけないわ。だから、これからする事は、自分で憶えてね」
 そう言いながら、和恵は美香の服の着方を直し、顔に化粧を施していった。三上そのものであった顔は、瞬く間に美香という女の顔になっていく。和恵の指示に従って時折目を閉じる美香は、目を開けるたびに変わっていく自分の姿に呆然としていた。
「わたしたちが生きていくためには、徹底的に女のフリをしなくては駄目なの。格好からしぐさから・・・」
「フリ?」
「そうよ。こんな姿だけどわたしたちは女じゃないの。もう人間ですらないわ」
「どういうことなの・・・・」
 和恵の言葉に、再び驚く美香。瑠璃に「女」と言われたときとは違う恐怖感が美香の中に沸き起こる。
「わたしたちの姿はね、一種の擬態に過ぎないの。それをこれから教えてあげる」  立ち上がる和恵。鏡の中には、見違えるほどになった美香がいた。しかし美香にはそれを見る余裕がない。頭の中で、和恵の言葉が渦を巻いている。自分は一体何者なのだ・・・
「ついて来て」促す和恵。
「どこへ?」
「店へ。お腹がすいたでしょう?」
 美香は言われて気付いた。さっきから感じる不快感は、空腹感だったのだ。
 手招きする和恵。美香は和恵に従った。外に出ると、そこは美香がよく知っている街の中だった。
「この、ホテル・・・」出てきた建物を見上げる美香。記憶を手繰る。和恵に連れられて入ったホテルだ。そして、そのホテルはたしかどこぞの元風俗嬢がオーナーだったと聞いている。
「そう。私たちの家みたいなものよ。ここにいる限り私たちは安全だわ」
「安全?」
「そう。私たちは生まれ変わったの。生きていくためにはいろいろな制約があるわ」
 和恵は、やはり後ろめたいものがあるのか少し俯きながら話をする。すれ違いざまに二人組の男が振り向く。美香は、自分がなにかやはりおかしいのではないかとその視線を気にしたが、和恵はそれに構っていなかった。
「私たちは共同体よ」美香の様子を気にせず続ける和恵。
 美香は、和恵の話を聞いているどころではなかった。男たちがじろじろと二人を舐め回すように見ていく。その視線が気になって仕方がないのだ。それに気付いたのか、和恵が足を止める。
「気にすることはないわ。男が女を見るのはあたりまえの事よ。それに」
「それに?」
「男を引き寄せるのは、私たちに必要なことだわ」目をぱちくりさせる美香を従えて和恵は再び歩き始めた。
「まあ、それは後回しにして、大事なことを教えてあげるわ。まず、もうわかっていると思うけどわたしたちの体温は約三十度ぐらいなの」
「え!?」驚く美香。その美香を呆れたような顔で見る和恵。
「気付いてなかったの?周りの人たち見てご覧なさいよ」
 美香は辺りを見回した。なるほど、自分たちは比較的薄着なのに対して、周りの連中はまだ上着を羽織っている。
「だから、普通の人たちにとって少し熱いくらいのものでも私たちが触ると火傷をするわ。それから、直射日光に当たるのも駄目よ。同じように火傷してしまう。少しぐらいは大丈夫だけど、火傷をするとなかなか直らないし最悪跡が残るらしいわ。だから、直射日光は駄目。それに、あまり火傷がひどくなると死んでしまう。普通の人間よりも熱射病のような状態になりやすいし、その場合の致死率も高い。本当は、少し違うみたいだけどわたしたちにとっては同じ事だわ」
 黙って聞く美香。彼女は一体自分が何者になったのかわからなかった。さっきから和恵の話を聞いているとどうも自分は人間ではないと言われているようだった。しかし、どう見ても、彼女自身が見た限り彼女は人間だとしか思えない。もし違うとすれば一体何なのか・・・・
「着いたわ」
 美香が連れてこられたのは、ごく普通の雑居ビルに見えた。エレベーターに乗り、その四階に上がる。エレベーターのドアが開くと、そこはすでに店のフロントになっていた。エレベーターのフロア案内によれば四階以上は「ヴァンプKISS」という風俗店だ。そこがどうやら和恵の言うところの「店」らしい。
「おはようございます」和恵がフロントの女に挨拶をする。
「今日からの、美香ちゃんです。こちらは、恵美さん」
 美香は、和恵に促されて軽く礼をした。フロントの女、恵美は無表情に美香を見ると、和恵に言った。
「十分ぐらいで予約のお客さん来るから。来たら回すわね。それまでに用意をさせて」
 和恵が奥に向かう。美香が連れて行かれた控え室には、他に数人の女がいた。和恵は美香を彼女たちに紹介すると「ちょっと待っていて」というと部屋を出ていった。
 最初の挨拶こそ交わしたものの、他の女たちは皆一様に押し黙っていた。「新入り」の美香に好奇の視線を投げるでもなく、ましてや話しかけてくるでもない。しかし美香には何となくわかった。彼女たちは、美香の同類なのだ。おそらく数日前までは男であった者達。それが今、この奇妙な風俗店の控え室で何かを待っている。
 長いような短い時間のあと、和恵が再び現れ美香を呼んだ。和恵が個室の一つに入るように美香を促す。美香は、風俗店に入ったことがなかったが、どういうことをするのかはいくらか知っていた。
(まさか・・・・)
 美香は、自分が客を取るなどと言うことは想像だにしたことがなかった。しかし和恵に言われるままついてきたものの、ここで個室には入れということはそういうことではないのか・・・・
「フフフ、怖いの?」和恵が微笑みかけてくる。そういえば、美香は美香になって以来、和恵の笑顔をはじめて見た気がした。
 頷く美香。
「怖がる事なんかじゃないわ」個室のドアを開け、美香を押し込む和恵。そして和恵自身も美香に続いて部屋に入りドアを閉めた。案の定、中には男が一人、その簡易ベッドのような台に腰掛けていた。男は二人にゆっくりと顔を向けたが、美香はその顔を見てどう反応したらいいのかわからなかった。
「驚いた?」美香の顔を見て和恵が言う。男は顔に薄笑いを浮かべていたが、その目はどこか虚ろだった。
「さあ、そいつにキスするの」
「え?」
「簡単な儀式よ。それでそいつはあなたの物になるわ」
 戸惑う美香。和恵は面白そうにその様子を見ている。男は、その会話が聞こえているはずなのに何も反応しない。
(男とキスするなんて・・・・)
 美香には強い抵抗感があった。女の姿になりここまで女のように振る舞ってみたとはいえ、美香としてはそれは方便のようなものであったしまだ自分が女であると自覚しているわけでもなかったため、男とキスするなどということは、彼女の意識にとってはアブノーマルそのものであり考えるだけでも気持ちが悪いことだ。
 躊躇する美香に向かって和恵は言った。
「キスすると思うからいけないのよ。あなたの唇をそいつの唇に重ねることによって、そいつを一種の催眠状態みたいにするの。そうするとしばらくそいつはあなたの思いのまま。何を言っても言うとおりになるし、何か吹き込んでおけば吹き込んだとおりの行動をしてくれるみたいよ」
 ますます戸惑う美香。美香は和恵が何を言っているのか理解できなかった。それをわかっているのか、和恵は続けた。
「さっきも言ったけど、わたしたちは人間じゃないのよ。この姿は擬態なの。餌をとるためのね」
 美香は和恵がそう言っていたことは憶えていたが、意味が理解できてはいなかった。
「わたしたちは、普通の食べ物を消化することができないのよ。だから、別の食べ物が必要なの。試しに普通の食事をしてみるといいわ。味覚も変わっているから全然味なんてわからないし、もっと酷いことになるわよ」
「酷いこと?」ようやく声が出る美香。
「やっと少し落ち着いてきたようね。そう、わたしなんか笑ったわよ。食べてすぐトイレに駆け込んだら、食べた物が噛み砕いたまんま出て来るんだから」
 唖然とする美香。和恵が言っていることが想像できない。
「まあ、飲み物は大丈夫みたいだけど。まあさっきも言ったけど味覚が変わっているからおいしいとは思わなかったし。酒を飲んでも全然酔わないわ。だけど、冷たい飲み物は暑いときに体温を下げるためにはどんどん飲んだ方がいいの。そうしないとあっという間に熱射病よ」
 美香は思いだしていた。さっき和恵に体温のことを言われたときにはピンとこなかったが、落ち着いて思い出すと実感が湧いてくる。確かにホテルのエアコンはぎりぎりいっぱい低く設定されていたし、シャワーの湯温もぬるすぎる程度が丁度よかった。どうやら彼女が人間でなくなったのは本当らしい。しかし、人間でなかったら一体・・・
「本当はね、別にキスしなくても今は大丈夫。私がさっきキスしたばっかりだから。でも慣れておいた方がいいわよ。あなた、いきなり他の男のもの、口に入れられる?」
 言われてほとんど反射的に首を振る美香。「店」に連れてこられたときから何となく想像はしていたが、やはりはっきり言われると考えるだけで気持ちが悪い。
「はっきり言わないとわからないようね」美香の反応を見た和恵が呆れたように言う。
「わたしもいつまでもつきあってられないから言うわ。わたしたちの食べ物はね、もう想像ついてるとは思うけど、人間の、男の体液なの。一度吸えばわかるわ。わたしたちの味覚もそれがおいしく感じるように変わっているし。わかるわよ、味覚が変わるならなんで意識も変えてくれなかったのかって。でもこれが現実なの。食べないとお腹が空くだけ。そして、自分の食べる分は自分で調達するの。わたしたちの姿はそのためにあるのよ。人間の雄を引き寄せるための姿がこれなの。はじめは辛いわ。わたしもそうだった。でもそんなことすぐに慣れる。わたしたちが生きていくためにはそれをしなければならないのよ」
「体液を吸われた人はどうなるの・・・?」美香は、自分でも半ばわかっていながらその質問を口に出した。
「一度ぐらいだったら何ともないわ。たぶん、生殖能力は落ちるでしょうけど。人によって違うけどだいたい四度か五度ぐらいで干涸らびるわね」躊躇せず答える和恵。彼女は、自分がそうなったときのことを思い出しているようだった。迷いを振り切って本当に人間でなくなったときのことを。
「干涸ら、びる・・・・」
「そう。干涸らびて、ほとんどの人はそのまま塵のようになって死ぬわ。でも何人に一人、だいたい七、八人に一人ぐらいだそうだけど、干涸らびてから羽化して仲間になる。若いと羽化する率は高いらしいわね。高いと言っても七、八人が五、六人になるぐらいだけど。だからわかるでしょう?あなたは運がいいのよ。羽化してわたしたちの仲間になったのだから」
「仲間?」
「そうよ。わたしたちは人間よりもうんと寿命が長いの。そりゃあ、気を付けないとすぐ死ぬことになるけど、無理せずにちゃんと食べさえすれば当分死なないらしいわよ。でも、安定して食べるためには、みんなの協力が必要なの。だから、わたしはあなたの面倒を見ているのよ」
 一方的にまくし立てられて、美香は当惑していた。
(自分で望んだわけではないのにどうしてこんな事になるのだろう)
 美香の目の前に、虚ろな目をした男の姿があった。美香は、その男を記憶の中の自分と結びつけていた。彼女の記憶にある恐ろしいほどの陶酔感。それを味わうたびに、彼女は男では、人間ではなくなっていったのだ。
「さあ、早くして。食べないのなら他の子に回すわよ。楽をして食べられるのならそれに越したことはないんだから」
「わかった、わかりました」美香は、目を閉じて、男の唇に自分の唇を重ねた。
 意外なことに、その感触は心地よかった。そして、顔を離すとそこには、陶酔感に満ち溢れた男の顔があった。
「いいわ。次は服を脱がせて」和恵が言う。美香はそれに従い男のワイシャツのボタンを外しはじめた。しかし和恵がそれをすぐに止めた。
「いい、そんなことする必要はないのよ。ただ男に命令すればいいの」
 美香はもう理解していた。彼女自身が、和恵の命令に逆らう気すら起きなかったことを憶えている。彼女は、頷くと男に向かって言った。
「裸になって」
 男は言われるまま、服を脱ぎ捨てていった。恍惚とした表情は変わることなく、焦点の合っていない目が時折自分の手元を確認している。そしてやがて、男は全裸になってベッドに横たわった。
「後は、わかるわね」確認する和恵。
 美香は和恵に肯いた。もうこうなった以上仕方ないと思った。和恵の言うように早く慣れた方が自分のためだとも思っていた。そして彼女は、自分の変化を感じ取った。
(わかるわね、って、こういう意味だったんだ・・・)
 彼女の舌が、ザラザラしたものに変わっていく。どうすればいいかは解っていた。彼女は完璧に理解した。これは、食欲だ。そして、それが満たされるためにはどうすればいいのか・・・
 個室を出ていく和恵。美香は、嫌悪感と空腹感の間でしばらく迷ったが、やがて思い切って男の下半身に顔を埋めた。


「お先に失礼します」
「はい、おつかれさん」
 アルバイトたちが帰っていく。井川は急いで片付けをしていた。
「店長」
 紀子は井川の方を覗き込んだ。
「ごめんな。今日は中野と警察へ行ってみるから・・・」
「あたしも・・・」上目遣いにしてみる。彼女は一緒についていきたかった。井川の面倒見の良さを頼もしく思う一方、変なトラブルに巻き込まれはしないか、彼のことが心配で仕方がなかったのだ。もっとも、彼女が一緒にいたからと言ってどうなるとは思えなかったが。
「すまん。中野の手前もあるから、今日は先に帰ってくれないか?時間もどれくらいかかるかわからないし」
 井川が、紀子の肩に手を置く。井川の暖かい手が触れるだけで紀子は安心感で包まれる。
「うん。じゃあ先に帰ります」自然に微笑みが出る。紀子は井川に微笑みを残してロッカーに行く。
「おつかれさん」井川の声。その声が、紀子の胸に響く。
 ロッカー室のドアを閉め、ため息をつく紀子。一息ついて、彼女は帰り支度をはじめる。あまり遅くなると、井川はかえって心配するだろう。彼女は急いで着替えると、鏡を見た。
 自分の顔とにらめっこをする。自分の顔が、とても幸せそうに見える。その反面、その幸せが夢のようで怖いような気がした。井川の手の温もりが、まだ肩にあるような気がする。そして無意識に自分の肩を押さえてしまう。そんな自分に気付き、思わず苦笑いが出てしまう。
 支度を終え、彼女はロッカーを出た。井川はまだ片付けをしている。
「お先に失礼します」形どおりの挨拶をする紀子。
「気を付けて」
 応える井川に、紀子は軽く頭を下げた。これ以上彼を見ていると動けなくなってしまう。彼女は思い切りよく身を翻しエレベーターに乗り込み、「閉」を押した。ドアは閉まっていこうとしたが、すぐにまた開いた。
「すみません!」
 駆け込んできたのは川本だった。ドアが閉まる。川本は相変わらず少し青白い顔をしている。
「川本君、大丈夫?」川本の顔を見て、思わずそう言ってしまう紀子。川本は彼女より一つ年下で、フリーターの彼女と違って昼間は学生をしているはずだった。それでもこのところほとんどラストまで入っている。学生ってそんなに暇なのかな、と、紀子は思う。
「イヤだなぁ、中川さんまで。そんなにボク顔色悪いですかぁ」おどけたように応える川本。その態度には本当に調子の悪そうなところはない。しかし、彼女が見た限り、エレベーターの蛍光灯に照らされる彼の顔色は見るからに悪い。
「そう・・・・」紀子はそのギャップが気になったが、それ以上何も言わなかった。大沢や三上も、こんな具合ではなかったか?彼女は必死に思い出そうとしていた。これ以上仕事がわかっているアルバイトが急にいなくなっては困る。何よりも、井川の負担が増えることが彼女には一番気になっていた。
 エレベーターが一階に着いた。ドアが開く。
「お疲れさまでした」エレベータを駆け出す川本。彼は駅の方に二、三歩行きかけて一瞬止まった。
「どうしたの?」
「いえ・・・・なにも・・・」紀子の問いに口ごもる川本。紀子は不審に思った。そして彼の表情を見た瞬間、彼女は何かが胸に突き刺さったような気がした。
 川本の表情が変わっている。おどけたような表情が消え、まるで放心したように無表情だ。そして彼は、そのまま駅とは逆の方に歩いていく。
「ちょっと、川本君?」
 慌てて呼び止める紀子。しかし川本は意に介しない様子で振り返りもせず歩いていく。仮になにか用事があるにしても、時間的にはともかくあの態度はどう考えてもおかしいと思う。そして、その何かに取り憑かれているような表情は、紀子に映画のゾンビを思い起こさせた。子供の頃、親の目を盗んで見ていた昼のテレビ映画劇場かなにかでやっていた憶えがある。墓から蘇り、夢遊病者のごとく青い顔に虚ろな表情で町をさまよい人を襲うゾンビたち。それを見てからしばらく紀子は夜眠ることができなかった。その時の恐怖に似た何かが、紀子の胸の中にある。時計を見る紀子。終電までにはまだいくらか時間があった。
(このまま川本君がいなくなったら・・・・)彼女は川本の後を追うことにした。
 その紀子の行動をまったく気にせぬ様子で、川本は繁華街の奥の方へと進んでいく。やがて、川本はその繁華街でも有名な待ち合わせ場所の一つになっている噴水の前で立ち止まった。紀子は、距離を取ったところからその川本の様子を観察した。川本は、虚ろな目で噴水の前に立ちつくしている。そして次の瞬間紀子は声を上げそうになった。
 川本の前に現れたのは、一人の女だった。その、ブラウスにパンツといった格好の女が、川本に無造作にキスをする。二人は、そのまま腕を組むと夜の街に消えていった。しかし、そんなことはどうでもいい。何より驚いたのはその女だった。
 見間違えたとは思わなかった。その女は、間違いなく先日閉店後に現れた「大沢によく似た」女だった。
(川本君の彼女・・・?)彼女はそう思おうとしたが、彼女の直感がそうは言わなかった。なにせ川本の様子がおかしすぎる。紀子には、まるで川本が「女に操られている」ようにすら見えた。
(いくらなんでも・・・・でも、そんなこと・・・・)
 ゾンビに殺された人間は、またゾンビになって他の人間に襲いかかるのではなかったか?
 とてつもなく非現実的ではあったが、紀子のイメージが映画にダブる。
(どうしよう・・・・・)
 立ちすくんだままの紀子。川本の姿は雑踏の中に消えていた。そして紀子は、そのまま川本が彼女たちの前に二度と姿を現さないような気がしていた。


「芦沢さん、ちょっといいですか?」
 二人の男から何か話を聞いていた三谷が、芦沢を呼んだ。
「何だい?」
「人捜しですけど、捜索願を出してあるらしいんですよ」
 芦沢は身を乗り出した。
「名前は?」
「中野清二十四歳。北崎署の方で出したらしいんですが・・・芦沢さん?」
 芦沢はもうキーボードを叩いていた。検索すると、その名前がすぐに出てくる。中野清二十四歳。届けが出されたのは二週間ほど前だ。
「あるある、北崎署。N商事本社ビルを最後に行方不明」
 芦沢はそれをプリントアウトすると、三谷の方へ向かった。
「ほれ」三谷にその紙を渡す芦沢。その三谷の向こうで二人の若い男、一人は学生ぐらい、一人は芦沢と同年輩ぐらいの男が立っている。
「失礼ですが、ご家族の方ですか」
「弟です」若い方が答える。そしてその若い方が、金色のペンを取りだした。
「それは?」
「今日町で拾ったんです。兄の物に間違いありません」
 彼の顔を見つめる芦沢。もう一人の存在が気になった。
「そちらの方は?」
「彼のアルバイト先の店長です。何でも、少し相談したいことがあるということで」三谷が答える。
「相談?」
「ええ」今度は井川と名乗るその「店長」が答えた。
「最近うちの店で、若くて真面目なのが急に二人ほど辞めまして・・・・給料を渡そうにも連絡が取れないんですよ」
 芦沢の中で、何かがピンと引っかかった。宮下に直接結びつくかどうかは別として、それはこの大量失踪という状況に対するはじめての手掛かりのように思えた。やはり確かに理由なく人が消えている。それも若い男が。
 署の中は、未だに辰巳会組長殺人事件の捜査会議が行われている。芦沢は、井川の顔と中野茂の顔を見比べて言った。
「差し支えなければ、出ませんか?ご存じのとおり今署内は例の組長事件で慌ただしい。ゆっくり話を聞かせて貰いたい」
 頷く井川。茂は、意外な展開に驚いた顔をしている。
「三谷君はどうする」
「あ、行きます」急に振られて慌てて答える三谷。
 芦沢は三人を従えると足早に署を出た。


「社長・・・」瑠璃は、応接のソファに腰掛けていた。間もなく食事の時間だ。瞳と瑠璃は、自分で調達しなくても食事を取れるようになっていた。それが、瑠璃が作り上げたシステムであったし、瞳を「仲間」のトップとして他の仲間たちに認識させることでもあった。
「どういうつもりなんですか?あの刑事にあんな事言って」
 瞳は、ブラインドを開けた窓からネオンの町を見ていた。道行く人々・・・男と女、酒とセックス、そんなものから織りなされる欲望が、この町には渦巻いている。それはある時はドロドロとした嫌悪感を誘ったし、またある時は羨望を誘っている。しかし瞳は、永久にその中に入っていくことはできない。入っていく事は彼女の死か、街の死を意味する。彼女が生きている限り、そこに参加しているフリはできても参加することはできないのだと彼女はわかっていた。
(これが、私の得たものなの・・・・)
 時々彼女はそう思う。遠い昔、山奥で羽化して以来、彼女は安心して暮らすことのできる場所を探してきた。彼女、いや、まだ学生服を着た少年に過ぎなかった彼を山の中に連れ込んだ女がどうなったのかは彼女も知らない。おそらく瞳が羽化したことすらも知らないだろう。裸で山を彷徨っていた彼女を、若い男たちが車に乗せた。彼女はそこで自分の能力と自分に必要な物を悟った。間もなく彼らのちっぽけな財産は彼女の物となり、彼女はとりあえずの生きる糧を手に入れた。
 それでも・・・・・安心して生活するためには不十分だった。時折彼女は餌を求めて深夜の国道沿いを彷徨わなければならなかった。彼女の姿を見て、男たちは車を止めた。彼女がそこで知ったのは、男という動物がいかに自分勝手な欲望の持ち主であるかということだった。自分がかつて同じ生き物だったなどとは思うだけで気分が悪かった。彼女はまるで罠を張る蜘蛛のようにそんな男たちから容赦なく命を吸い取っていった。しかし、そのような生活は長く続かなかった。「深夜の国道に立つ女」は噂になり、人目を忍んで食事をすることができなくなったのだ。
 そんな頃、自分でも知らないうちに心まで女性化させていた彼女は、一人の男と出会った。そこで彼女ははじめて男の優しさというものに触れた。しかし、彼女に幸福はやってこなかった。確かに彼と彼女の心は結ばれていた、と彼女は思う。しかしすべてにおいて二人が結ばれることはなかった。彼女は食事をしなくては生きていけなかったし、彼は人間に過ぎなかったのだ。二人が結ばれたとき、二人の関係は終わった。恍惚とした彼の表情を見て彼女は自分の運命を呪い、自分が人間でないことをイヤというほど思い知らされた。彼女は彼を自分の中に取り込んだ。彼は羽化しなかった。
 彼女が都会という隠れ場所を思いついたのは、それからしばらくしてのことだった。田舎と違って都会では周りの人間にいちいち詮索されることがなかった。夜の仕事というものがあると知った彼女は風俗産業に潜り込んだ。
「今のうちに、なんとかしないと・・・・・」
「瑠璃さん、社長というのはやめてって言ったでしょ」瑠璃の言葉を遮る瞳の語気は鋭かった。彼女が今の地位にいられるのは間違いなく瑠璃のおかげだ。瞳が持ったはじめての仲間といえる存在が瑠璃だった。
 もともと瑠璃は、瞳の客として彼女の風俗店にやって来た。そのころ瞳は、「女同士の関係」というものに少しうんざりしていた。店の男たちを操るのは簡単だったが、女たちはそうはいかなかったのだ。単純な男たちに比べて女というものは嫉妬深く、嫌がらせ一つにしても陰湿だった。特に瞳の場合ははじめに男たちを操って自分を売り出させたりしたためにその嫌がらせは激しかった。そのころのことだった。その男、景山春樹が現れたのは。
 若手で敏腕な弁護士と言われていた彼も瞳の前ではただの男に過ぎなかった。店で働く瞳は瞳なりに頭を使い、自分の客には適当に暗示をかけて店での出来事は忘れさせ、期間を置いてから再び来させるようにしていたし、干涸らびてしまう前に「二度と来ないように」暗示をかけていたが、二人の間に生じた微妙な関係は、彼を彼女のマンションで息絶えさせることになった。そして、彼は瑠璃となって羽化した。
 実際のところ、瞳は自分以外の羽化を見るのははじめてだった。「羽化」という言葉もあとから瑠璃が付けた言葉だ。それまで瞳が「食べた」男たちがどうなったかは、彼女自身もそうだったように彼女は知らない。中には羽化したものもいたかもしれなかったが、彼女は「運が良ければ生き延びるだろう」ぐらいにしか思っていなかった。しかし瞳にとって瑠璃は違った。景山が瞳に入れあげた理由は彼女にはわかる。二人は似たもの同士だったのだ。景山にとって、孤独の中に現れた心のオアシスが瞳だった。そして、瞳にとっても景山は、彼女の孤独を理解してくれる人物だった。瞳は景山にすべてをうち明けた。そして景山は、それを知った上で瞳に自らを差し出した。
 瑠璃は、羽化するとすぐに彼女の立場を理解した。そして、瞳の立場も。瑠璃は、瞳にとってはじめての仲間となった。そして仲間になった後もその明晰な頭脳はかわらなかった。社会の矛盾を感じつつ弁護士として生きてきた瑠璃が、その知識と頭脳を自分たちが生き残っていくために使うようになるのに時間はかからなかった。瑠璃は、自分の能力を使う場所が得られたことを喜んでさえいた。
「瞳・・・・・」ため息をつく瑠璃。
「刑事が一人消えたら、大事になるのじゃない?」やっと、瞳が答える。
「今なら大丈夫ですよ。その証拠に、今日はあいつ一人だったもの。他の連中は辰巳会の方に駆り出されているはずよ。もっとも、何も出てこないでしょうけど」涼しい顔をして言う瑠璃。確かに、今までのところ彼女の計算に狂いはない。辰巳会は、横山組のように壊滅した。しばらく彼女たちの動きに介入してくるものはないだろう。
「じゃあ、どうするの?」瑠璃の顔を、面白くなさそうに見る瞳。
「息抜きをしてもらうのはどうでしょう?刑事にも息抜きは必要だと思いますけど」
「そうね。そこの店の女とデキてしまうのもいいかしらね」瑠璃の提案に答える瞳。
「許されない恋ですね。刑事が風俗嬢に入れあげるなんて」
「そうよ。許されない恋をした刑事は、そのまま辞職してその相手と駆け落ちするの」
 ストーリーは出来上がった。顔を見合わせ微笑む二人。
「瑠璃さん、手配は頼むわね」
「かしこまりました」かしこまらず、流すように言う瑠璃。
「でもいいわね」瞳がつぶやく。
「え?」
「私も、恋がしたいわ・・・・・」言葉とは裏腹に、瞳の表情は暗い。
「瞳・・・・」瑠璃には、瞳の気持ちはわかっていた。しかし、そればかりはどうしてやることもできないものだった。ちょうど、部屋がノックされた。
「はい」
「お食事をお持ちしました」
「入って頂戴」
 二人の女に従って、若い男が下着姿で入ってくる。一人はまだ血色がよかったがもう一人は全身が青白かった。女たちに言われるまま、二人はそこに用意された大きな桶のようなものに横たわると下着を脱いだ。そこまですると、女たちは一礼して部屋を出ていった。
「部屋は足りてるの?」瞳が瑠璃に尋ねる。
「ええ、いまのところは。下の者達にはなるべく自分で調達するように指導してますし」
 このところ人員が増えたこともあり、瞳はもう一つぐらい拠点が欲しいと思っていた。しかし、予想外なことにこの町の掟のようなものがそれを阻んでいる。横山組と辰巳会の処理が意外と長引き、皮肉なことに予想外の人員が増えてしまったこともある。瑠璃はよくやってくれていると瞳は思うが、もう一人瑠璃の片腕ぐらいになれるものが欲しいとも思っていた。
「町で調達させるのはいいけれど、充分気を付けさせてね。ばれたら生きていけないのよ、わたしたちは」瞳が確認するように言う。すぐに瑠璃が応えた。
「ええ、心配しないで。近いうちに寮を作るようにします」
「寮?」
「一棟丸ごと売り出している収益用のマンションを今当たってます」
「そう・・・・」
 瞳は舌が変化していくのを感じた。目の前で、呆けた顔の男が横たわっている。瞳も不思議に思うが、食事の時間というのは半ば本能的なものだった。男の裸が目の前にあっても、最初はあまり見たい気分ではない。が、しばらくすると食欲がその嫌気を上回る。そして気がつくと、舌を巻き付け吸っている。それは瑠璃も同じ事だ。もっとも、彼女はもうそんなことにはとっくに慣れてしまったが・・・
 二人はそれぞれの相手の下半身に顔を埋めた。暫くの後、瑠璃の方の男が、干涸らびていった。瞳の方はまだ大丈夫なようだ。
「こいつは駄目みたい」瑠璃が言う。干涸らびた男の身体が、砂の城のように徐々に崩れていく。やがてそれは、ただの塵の固まりになった。一方の瞳は、男に向かって陶酔感以外のすべてを忘れるように語りかけていた。瞳は、事切れる瞬間までその男に快楽を味あわせてやりたいと思っている。それが彼女の男に対する礼儀のつもりであったし、こだわりでもあった。男は彼女の事だけを考えながら消えていくのだ。この男を含めてここに出てくる男は町から彼女たちの仲間に連れてこられ、帰る気どころか部屋から出る気すら失うように暗示をかけられており、それ以外にもいろいろと快楽から抜け出せないように暗示をかけられているので実際にはもう正気に戻ることはないのだが、瞳はそれをやめなかった。
「ごちそうさま。片づけて頂戴」瞳が言う。再び女たちが現れ、生きている方を連れていく。そして干涸らびた方の塵は、大きなゴミ袋に集められて運ばれていった。
「じゃ、早速手配を」
「ええ」
 瑠璃は、瞳の指示に頷いた。


「なるほど・・・・」芦沢は頷いた。井川たちの話は非常に興味深かったし、やはり何かあると確信を持つのに充分だった。特に話の中に出てきた、ペンを拾ったホテルというのがとても気になった。そのホテルは、高中が嫌っていたあのホテルだ。そして、今回の辰巳会とも以前関わりがあったホテルでもある。否が応でも興味を引かれた。
 二十四時間営業の喫茶店で、四人は話をしていた。茂は彼の兄が失踪した状況をひととおり話し、そして兄のボールペンを発見した事と、その数日前兄が店に飲みに来たことを話した。井川は、大沢と三上が突如失踪したことを話した。そして井川は、その失踪した者達が一様に顔色が悪かったことを付け加えた。それと、大沢に似た女の事も。
「その女性が何か関係あるかはわかりませんが、その他の共通点としては、その、顔色が悪かった、というのがあるんですね」
「ええ」芦沢の問いに答える井川。茂は感銘を受けていた。芦沢は彼の話をちゃんと聞いてくれた。ろくに話すら聞かない地元の警察とは大違いだ。
「ところが本人は、具合が悪いとかそういうことは何もない。ただ突如、消えてしまう・・・・」
 芦沢は頭をひねった。女はたぶん無関係だろうが、何かが起こっているのは確かだ。しかしそれがさっぱりわからない。三谷は横でメモを取っている。
「わかりました。もしよろしければ、明日お時間取れませんか?」芦沢が切り出す。
「ええ。午前中なら」
「オッケーです。じゃあ明日十時に」
 時計を見る芦沢。二時半を回っていた。
「と言いたいところですが、十一時にしましょう。お二人もしんどいでしょう」
 思わず笑う四人。三谷までもが笑っている。
「今日は送ります。お住まいはどちらですか?」
「そんな、刑事さん忙しいんじゃ」
「いえいえ、署に帰りたくないだけです。今建て込んでいるので・・・三谷君、このことは内緒にね」
 再び笑ってしまう四人。井川は芦沢の申し出に甘えることにした。


<第三章>

 翌朝・・・・
 結局、芦沢は署の駐車場で車を止めた時点で力つきていた。三谷は署の中で寝ているはずだ。
 コンコン、と車の窓ガラスを叩く音で目が覚める。窓の外には谷口が立っていた。時計は七時を少し回ったことを告げていた。
「風邪ひくぜおい」慌てて窓を開ける芦沢に微笑みかける谷口。その表情が不意に険しくなる。
「なあ」
「ん」突如険しい声を出す谷口に、芦沢の眠気が一気に吹っ飛ぶ。
「この寒いのに、薄着して街の中歩く女って理解できるか?」
「何だ突然?」谷口の突然の質問に戸惑う芦沢。昨夜、谷口が何をしていたのか聞きたい気がした。が、それを口にしなくても谷口は話し始めた。
「昨日、俺はあるところをずっと監視していた」車に寄りかかりながら、空を見上げるように話す谷口。その目が、遠くを見ているようだった。
「まあ、乗れよ」谷口に乗るように促す。谷口は、返事もせずに助手席に乗った。車を出す芦沢。
「おまえ、あのホテル知ってるだろ」谷口が前方を見ながら言う。彼はまだ、自分の考えをまとめながら話しているように見えた。
「ラ・ヴィールか?」
「ああ」
「どうも妙なんだ。あのホテルに出入りするのは、見た限り一人も含めて女だけっていうのが多いんだ。たまにカップルも入って行くが男はみんな腑抜けた顔してやがる。たしかに鼻の下伸ばしゃそんなもんかもしれないがな。しかし、しかしだぞ」
 谷口が考え込むように言葉を止める。
「どうしたんだ?」
「わからん。出てくるのは女ばかりだ。まあ最後までいたわけじゃないからわからないが、とにかく俺の見ていた限り男やカップルは出てこなかった。それでいて表示はいつも満室。カップルは入って行くが出てこないんだ。出てくるのは女だけ、それもみんな薄着のな。俺は、まあ動かないのもあるかもしれないがコートにくるまって寒さをしのいでいたのにだぞ。その目の前をごく普通にポロシャツとかブラウスだけの女が歩いて行くんだぜ」
「それで?」
「俺は気になって女の行き先を尾行した」
 しばらく黙り込む谷口。芦沢は車を、署の管内から出たファミリーレストランの駐車場に入れた。一応二十四時間営業だが、客はまばらで駐車場も空いている。
「で、どこへ入った?」
「系列のヘルスさ。ヴァンプキッスとかいう店だ。ホテルから三ブロックほどしか離れていない場所のな」
「なるほど、派遣型の営業もしていたわけだな。近いから上着も着なかったわけか」
「そう言えばそれまでだが、俺はどうも納得できなかった。そしてしばらく今度はその店を監視したんだ。ここから先は、俺の感覚だからな。あくまでも俺の感覚だ」
 わざわざ谷口は前置きした。彼が何を言い出すのか芦沢は興味深かった。
「確かに今度は入った男も出てきたさ。しかし、しかしだぞ、なんていうか、出てきた男連中、みんな腑抜けた顔してやがる。そりゃあ、中でイイコトしてるんだろうからそうだろうとも思うがな。でも俺には違って見えた。奴らの顔はホテルに入っていった男たちと同じ顔だ。腑抜けというか、心ここにあらずといった方がいいかもしれんな。まるで夢遊病みたいな感じの・・・・」
 芦沢は思い当たった。あの時、高中と一緒に見たあの顔。彼はもしかしたら麻薬中毒か何かかと思ったのでよく憶えている。
「何か、クスリでもやってるような顔だろ」話をそう振る芦沢。たぶん谷口の言っているのは自分が目撃したのと同じ顔のことだと思った。
「そう、それだ。どこか青白い顔して。なるほど、クスリか・・・・それは気付かなかった」谷口が妙に感心している。
「まあ、飯でもしようや」
「ああ」
 レストランに入りモーニングセットを注文する二人。ウェイトレスが注文を取っていった後、再び谷口は口を開いた。
「だがな、クスリと薄着とどういう関係があると思う?」
「わからん。が、温度感覚が麻痺するようなクスリだったら?」応える芦沢。しかしそれはすぐに否定された。
「それはない、と思う。男たちはみんな厚着だった」
「うーん」考える芦沢。コーヒーが先に運ばれてくる。
「ちょっと荒唐無稽だが」谷口が言う。
「何だ?」
「横山組が、辰巳会を吸収合併した上であそこをクスリの流通拠点にしているとしたら?」
「おい待てよ、そりゃあいくら何でもこじつけだ」
「だよな・・・・まさか若い組員ニューハーフに仕立て上げてまでするようなことじゃねえな」
「どういう意味だ?」
「実はな」谷口が身を乗り出す。思わず芦沢も顔を近づけた。
「店から出てきた女の中に、見覚えのある顔があったんだ。はじめはよく思い出せなかった。しかし・・・・」
「しかし?」
「俺は結局閉店まで監視することができなかった」
 谷口が、まるで恐ろしいものを見たような顔をする。それ程の出来事があったのだろう。
「何があった?」
「奴ら、俺が監視しているのを知ってやがった。俺が震えながら入り口を張っているときに、後ろから・・・それも笑いながら声をかけてきやがったんだ。俺は振り返って声を上げそうになったぜ」
「誰か、知っている奴だったのか?」
「知っている、まあ、知っているといえば知っているんだろうな。俺に声をかけてきたのは二人組の、薄着の女だった。俺にはそれが誰だかはっきりわかった。だが、そいつはそいつじゃなかったんだ」
「おい、何言ってるんだよ?さっぱりわからんぞ」谷口が頭を抱えるのを見て芦沢は慌てた。言ってのとおり彼には谷口のいわんとしていることがよくわからなかったのだ。突如谷口が、フフフ、と吹き出すように自嘲気味に笑いはじめた。
「俺は悟ったよ。横山組と辰巳会がどうやって姿を消したのか。奴ら、どういうわけか女の格好してやがったんだ」
「女の格好?」芦沢はどう反応していいのかわからなかった。谷口の言うことはどう考えても想像がつかない。しかし、谷口の反応を見るとそれは谷口も同じ事だったのではないかとも思えた。
「俺に声をかけてきたのは、辰巳会で組長のボディーガードをしていたのと、暴走族から横山組に引っ張られた若いのだったんだ。体格も体つきも全然変わっていたがあの顔は間違いない。俺は事務所のガサ入れの時にそいつらと顔を合わしているんだ。そいつらが、仲良く女の格好をして、いや、あれは間違いなく女だった。よくよく思えばさっき見た顔も、横山組の若いのだったんだ。その二人は明らかに俺を知っていた。ニコニコしながら谷口さん、とか言って腕を絡ませてきたんだからな。奴ら何を考えてるんだか俺にキスしようとしやがった。俺は・・・俺は咄嗟に腕を振り払って逃げ出した。だがな、それは身の危険を感じたからじゃねえ。生理的な嫌悪感からだったんだ。そいつらは確かに女に見えたよ。押しつけてきた胸も確かに女の胸の感触だった。だが、それとキスを迫られるのは別だ。奴らが顔を近づけた途端、俺は猛烈な嫌悪感に駆られて逃げ出したのさ。笑うだろ?せっかく手がかりを掴んだのに気持ち悪くて逃げ出したんだぜ。俺は刑事失格だ・・・」
 谷口が、頭を抱えて下を向いている。モーニングセットはすでにテーブルに置かれていた。芦沢は悟った。谷口は、単独行動をして手がかりを掴んだのにそこから些細なことで逃げ出してしまった自分に呆れているのだ。しかし、芦沢にとってその内容は、荒唐無稽とはいえ「なにか」がある裏付けになると思えた。実際に若者が姿を消しているのだ。そして、「女」というキーワードは、昨夜の井川の話とも通じるものがある。
「よせよ。俺だって同じ状況だったら逃げ出すかも知れないさ。それだけ手掛かりが揃ったんだ、どこかで尻尾掴もうじゃないか」
「なんだって?」芦沢の言葉に顔を上げる谷口。
「俺の言うこと、信じるって言うのか?」
「たしかにちょっと無茶苦茶だし、実際に事務所がどう関わっているかわかったものじゃないがな。ただ、ラ・ヴィールについては俺の方も少しネタを掴んだんだ」
 芦沢は、ポケットからビニール袋に入ったペンを出した。
「何だ、それ?」
「昨夜、兄を捜しているという若い子から借りた。ラ・ヴィールの裏のゴミ収集場所のところで見つけたそうだ。その兄の物だとよ」
 谷口は、じっくりとその汚れたペンを眺めた。芦沢は続けた。
「それだけじゃない。その、女の件、俺も似たような話を聞いた」
「何だって?」思わず大声を出してしまう谷口。芦沢が慌て手回りを見回す。他の客が呆れた顔で二人の方を見ていた。谷口は、照れた顔で「すみません」と軽く頭を下げた。店に静寂が戻る。
「すまん、で?」谷口は、改めて続きを求めた。
「その、弟の店の店長の話だが、最近アルバイトが二人急に姿を消してる。そしてその二人目が消えた日の晩、一人目にそっくりな女が閉店後の店に来たんだそうだ」
「服装は聞かなかったか?」
「そこまでは聞かなかった。おまえの話を聞くまでは、その女が関係あるとは思えなかったんだ。だが安心しろ。十一時からもう一度その二人と会う。その、ペンを拾った現場へ行ってみようと思うんだ」
 芦沢の話しに頷く谷口だったが、不意に表情が硬くなる。
「でも、それは危険じゃないのか?もし昨日の俺みたいに奴らに勘付かれたら」
 谷口の話を遮る芦沢。
「いや、その時は格好の口実さ。公務執行妨害の拡大解釈でホテル内を調べる」
「すぐに署に連絡が行くぞ」
「署の方で対応しきれると思うか?」
 なるほど、と谷口は思った。署は今てんやわんやの大騒ぎだ。もし連絡が行っても署の方は対応しない。近所の交番から誰か来るかもしれないが、そのぐらいはなんとかできると思った。
「オッケー。俺も行かせて貰っていいか?」
「勿論だ。とりあえず・・・・時間もあるし飯食って一休みしようぜ」
 芦沢がコーヒーに手を伸ばす。谷口もそれに習った。


「恵美さん、あなたらしくないわね」
「お許し下さい・・・・」恵美が、そこに土下座をして小さくなっていた。
「わざわざ顔見知りを使うなんて。普通の人はともかく相手は刑事よ。それもこっちを疑っている。明らかな人選ミスだわ」
 瑠璃は、明らかに苛ついた顔で座っていた。瞳にはまだ報告していないが、昨夜谷口の処理に失敗したのだ。
「とにかく、早急に処理しないと・・・・昨日幸運だったのはあいつが一人だったという事よ。ただ、それが今日も一人とは限らない」
 恵美は、ただただ頷いている。彼女は、瞳が組関係の者達を切り捨てたいのを知っていたし、瑠璃が瞳には秘密で組関係の者達を処理しようとしていることも知っていた。恵美もそう思う。組関係から仲間になったの者たちは、質が悪い。恵美でさえも、彼女たちをコントロールするのには苦労していた。彼女たちには、危機感が欠如しているのだ。瑠璃は、この町を仲間が安心して暮らせる場所にしようと目論んでいる。が、それはあくまでも共存に見せかけて実は蜘蛛の巣を張っている事に他ならない。もし彼女たちが人間にとって害になる存在だと認識されたが最後、彼女たちは行き場を失うだろう。直射日光や高温を避けて、さらに安定した収入と食糧の供給を得ることは彼女たち一人一人の力では不可能である。だからこそ恵美は組織的にそれを確保しようとする瞳や瑠璃を尊敬し、無条件に従ってもいるのだ。
 恵美の羽化する前の人生は、絵に描いたようなエリートコースだった。幼い頃から何不自由なく育った彼、中沢浩一は、周囲の期待を背負って一流大学からキャリア官僚への道を進んだ。しかし、周囲の期待通り官僚になった彼は、すぐに自分の存在に矛盾を感じるようになった。
 彼は、自分が公僕として国民全体のために働こうという強い意志を持っていた。彼にとって、周囲の期待というのはそうなることによって自分たち全体の生活が明るくなるということだったのだが、現実は違った。周囲が期待していたのは、彼が官僚になることで自分たちに他人とは違う便宜を図ってくれることであり、また彼の周囲に、国民全体のために働こうなどという者はほとんどと言っていいほど存在しなかった。彼の周りには私利私欲のために働く輩しかおらず、そういった輩は皆の幸せのために働くという彼に侮蔑の視線すら投げかけた。
 半年を経ずして、彼のキャリア生活は終了した。精神的に半ば破綻しかけていた彼は、ただ宛もなく町を彷徨うようになり、そこで瑠璃に出会い、羽化した。
 生まれ変わって恵美となった彼女は、自分が今までいかに様々な呪縛に縛られていたか悟った。そして、彼女がその呪縛から自由になったことも。彼女にとって、自分を解放してくれたのが瑠璃と、瞳だった。そういう意味でも、恵美は瑠璃と瞳を深く敬愛している。
 組関係の者を使ったのは恵美の失敗だった。しかも、その者達は恵美の指示どおりに動いたわけではない。恵美は、横山組の若手だった弘美に「谷口に顔を見せろ」と指示しただけなのだ。それは、谷口が顔見知りの彼女を見ればおそらく自分から店に踏み込んでくるだろうと考えたからであり、弘美以外にも二人ほどにも同じ指示をした。しかし、弘美は事もあろうにもう一人と語らって強引に谷口を拉致しようとしたのだ。確かに目的は同じだが、恵美は彼女たちの質の悪さを再認識させられた。それも最悪の形で。
「瑠璃さん」恵美は、意を決したように言った。
「何?」
「組の子たちは、切り捨てるわけにはいかないんでしょうか?」
 恵美は真剣だった。組関係の者達は、好き勝手に振る舞い仲間を増やしている。実際、仲間の増殖に恵美や、瑠璃たちの管理が追いついていないのが現状なのだ。無秩序に数が増えればどこかに綻びが生じ、人間たちに気付かれてしまう。気付かれたが最後、人間たちは彼女たちを駆除しようとするだろう。
「わかっているわ。彼女たちは実際ガンよ。せっかく組関係の邪魔を除去したのにこれじゃ内側から崩れてしまう。でも、今は無理よ。リスクが大きすぎるわ」瑠璃は答えた。恵美の危惧は瑠璃もわかっているが、数が多くなっただけに野放しにするわけにも行かないというのももっともだった。
「瑠璃さん・・・・」
「いいわ、少し彼女たちを締め上げましょう。でも恵美さん、あなたには・・・わかっているわね」
 恵美は頷いた。早急に手を打たねばならない。
「今夜、やります」


 芳枝は、半ば放心したまま階段を下りていた。彼女の手には黒いビニール袋が提げられている。その中には、さっきまで弘美だったものが詰まっていた。
 朝、ラ・ヴィール五階の客室に彼女たち十人ほどが集められた。その客室は、他の客室よりもいくらか広い。集められた十人の中には、店の方からわざわざ呼ばれた者もいた。彼女たちは暑い思いをして体全体を包むような服を着て小走りにラ・ヴィールまでやって来ていた。厚着をする方が直射日光に当たるよりいいのかは芳枝にはわからなかったが、とにかく部屋に集められた者達はそういうリスクを犯してまで集められたのだ。
 部屋の中央に、瑠璃が立っていた。その両脇には恵美ともう一人、ホテルのフロントを預かる雅恵がいる。彼女たち十人とその「幹部」三人の他に、まだ仲間になったばかりの者がさらに二人いて、部屋の中は暑苦しい感じがしたが、瑠璃は妖しい微笑みを浮かべながら話をはじめた。
 話は、仲間同士のルールを守るようにというのが主な内容だった。芳枝は最初、そんな話をするためにわざわざ自分たちを集めたのかと思ったが、話が進むにつれて、それに深い意味があることを悟らざるを得なかった。
 話は、昨夜の出来事に及んだ。彼女は、昨夜恵美に「谷口に顔を見せろ」と指示を受けた。そしてそれが谷口をこちらに引き込むためだという説明も一緒に受けていた。彼女と同じ指示を受けた弘美は、彼女に「いっそのこと連れ込もうか」と持ちかけた。彼女たちは恵美が気に入らなかった。これでは組にいたときと同じだ。せっかく組から逃れられたのに、彼女たちに待っていたのは同じような、使われる方のポストだったからだ。
 弘美は言った。「もし上手くすれば、恵美を追い落として自分たちが使う方になれるかもしれない」
 しかし、それは上手くいかなかった。彼女たちは、女性化した自分たちの筋力や運動能力のことをよくわかっていなかった。結果、谷口に逃げられ、恵美に激しく叱責された。しかし彼女たちはそんなことは何とも思わなかった。恵美には、叱責することしかできない。それ以外に何をすることができるというのか?
 恵美がいくら怒っても痛くも痒くもない。恵美は店を管理して仲間たちに食料を供給していたが、彼女たちは恵美に貰わなくても自分で食料を確保することができた。実際、恵美たちに構われなくても自分たちだけでなんとかやっていけるはずなのだが、いざというときに困らないためにここにいるだけだ。
 しかし、瑠璃の話が終わったとき、芳枝は恐怖のどん底に突き落とされていた。瑠璃は最後に一言「この部屋にはサウナがあったわね」と言った。他の仲間たちの視線が、芳枝と弘美に向いている。話の中で、瑠璃は「全員の安全を守るためには統率というものが必要不可欠だ」と言い、「統率を乱す者は、全体を危険に晒す」と言い、そして「全体を危険に晒す者は、我々の敵であり許すことはできない」と言った。サウナが何を意味するかは、芳枝にはよくわかった。彼女たちは高温の中では生きられない。
 瑠璃がやってきて、芳枝の肩に手を置いた。
「ねえ芳枝さん、あなたに余計なことを言ったのは、誰かしら?」
 芳枝は、恐る恐る弘美の方を見た。弘美は、恐怖に歪んだ顔で首を振っている。
 瑠璃が頷いた。芳枝は、瑠璃が何を求めているか理解した。彼女の行動に、他の何人かが加わる。弘美は、半狂乱な悲鳴を上げながらサウナの中に押し込められた。そしてやがて、弘美の悲鳴が聞こえなくなった。芳枝が恐る恐るサウナの中を覗き込むと、そこには、ボロボロに崩れ落ちた弘美の残骸があった。
「芳枝さん、そのゴミを片付けて。同じようにならないようにね」
 瑠璃は、そう言い残すと部屋を出ていった。他の者達も瑠璃に習った。芳枝は、恐怖におののき、高熱の苦痛に耐えながら手早くそれを片付けた。片付け終わると同時に、彼女はたまらず浴室に飛び込み服を着たまま水のシャワーを浴びた。
 芳枝が濡れたままゴミ袋を持って部屋を出ると、恵美がドアの横に立っていた。
「そんな格好じゃ、風邪引くわよ」
 恵美はそう言って着替えの入った紙袋を芳枝に渡すと、エレベーターに乗り込んだ。芳枝は、しばらくそこに座り込んでしまった。そして、もう二度と恵美に逆らうまいと固く誓った。
 直射日光を浴びないように、小走りにゴミ置き場へと向かう。芳枝は、まだ半ば放心状態だったが、それぐらいの分別は残っていた。しかしゴミ置き場にたどり着くまでに彼女は、それに気付いた。
(谷口・・・!)
 谷口を含めて、四人の男がゴミ置き場のところで何かをしている。彼女は、慌てて建物の中に引き返した。
 これが瑠璃の言っていた「全体を危険に晒す」といった事なのだろうと彼女は悟った。自分一人で対処しようなどとしてはならない。それは、きっと全体を危険に晒し、自分をサウナの中に追いやることになるのだから・・・・
 彼女は急いで中に入ると、フロントにいる雅恵に注進した。
「裏のゴミ捨て場に、谷口が・・・他に三人連れて」
 雅恵は微笑んだ。
「よく教えてくれたわね」
 受話器を取る雅恵の姿を見て、芳枝は自分の命が繋がったことをようやく実感した。


「ここで、これを・・・・」
 周りを見回しながらメモを取る芦沢。その横で、谷口がホテル「ラ・ヴィール」を見上げている。大きなダストボックスには、いくつもの黒いビニール袋が、はみ出しそうに入っていた。そんな様子に、井川と茂は立ち会っている。
「これ、中身何だと思う」メモを取る芦沢に、谷口が話しかける。谷口は、ビニール袋を触っていた。
「さあな、ラブホテルだからな・・・・」芦沢は答えた。ホテルというところでは、様々な忘れ物やゴミが出ると聞く。些細な物から高価な物、そしてどう見ても重要そうな物など、その種類は多岐に渡るという。
「開けてみるか」谷口が、ふと思いついたように言う。
「よせよ。別に捜査してるわけじゃ、おい!」
 谷口は、芦沢に答えを求めてはいなかった。芦沢が応えるのを待つまでもなく、彼は一番上のゴミ袋を開けていた。
「何だこりゃ・・・・」
 谷口が、ゴミ袋の中から出てきた黄土色の、土のような粉を手袋をした手のひらに載せている。止めようとした芦沢も、それを見て思わず止まった。
「何だろう?」
 袋の中には、見た限りその土のような物が詰まっている。中にはそれが固まったような物もあったが、その固まりも手で触ると簡単に砕ける。谷口はビニール袋を取り出すと、それをいくらか詰めて密封した。
 その谷口をよそに、今度は芦沢の方が一生懸命ゴミ袋の中を漁っていた。井川と茂は、蚊帳の外に置かれたようにその現場を見ている。やがて、芦沢が何かを発見した。 「これは・・・・」
 それは、その土のような物にまみれたトランクスだった。それだけではない。さらに、毛髪と思われる黒い糸状の物が出てくる。が、それですべてだった。
「どういうことだと思う?」
「俺が聞きたいな・・・」谷口は、頭をひねりながらそう言った。谷口がゴミ袋の中を見たかったのは、芦沢の「クスリ」という言葉から注射器でも出てくればと思ったからだったが、それはなさそうだった。代わりに、この妙な粉と毛が出てくる。他のゴミ袋も漁ってみる。すると一般ゴミの他にその粉と毛、下着の類の他に、しわくちゃになった男物のスーツが一着、そして男物のジーンズとシャツが一着、下の方のゴミ袋から出てきた。
「どういうことかな?」道に広げてしまったことにも構わず、その内容を眺める四人。通行人が、不審な目を向けていく。茂が、恐る恐るといった感じで口を開いた。
「店長・・・・・」
「ああ・・・」
 井川は携帯電話を取りだしていた。二度、三度と呼び出し音が鳴る。二十回ほど鳴らしたところで井川は電話を切った。
「どうされました?」心配そうに井川を見る芦沢。
「出ない」一言だけ言う井川。
「店長・・・・」恐れおののいた、という表現が合うような顔で、茂が目を見開いている。
「井川さん?」
「その、服・・・・」井川が、ジーンズと対のようになっているシャツを指した。
「心当たりが?」芦沢と谷口の顔色が変わる。
「ウチのアルバイトの子が昨夜着ていたのによく似てるんです」井川が言う。茂も肯いていた。
「その子・・・」井川は、俯きながら続ける。
「昨日ちょうど顔色が悪いな、と思ったので大丈夫かって聞いたんですが、本人は全然気にしていない様子で・・・・同じなんですよ」
「同じ・・・」芦沢が頷く。
「前の二人の時と。今電話をしたらやはり出ない」
 沈黙がその場を支配した。
「芦沢、これを鑑識に回そう」
 暫くの後、谷口が例の粉と髪の毛の入った袋を芦沢に渡した。
「残念だが、今の段階では証拠が足らん。それを分析したところでどうなるかわからんが、やってみるだけのことはあるだろう。それと、井川さん、お手数ですがその、アルバイトの子にもう少し連絡を取ってみて貰えませんか?それで、もしも」言いながら、そのジーンズとシャツを拾う谷口。彼はゴミ袋の一つに入っていた紙袋を取りだし、埃を払うとその中にそれを入れた。
「もしも」
「言い辛いことですが、もしどうしても連絡が付かない、もしくは失踪したことが明らかになった場合は早急に私か芦沢に連絡を下さい。芦沢、なにかメモするもの」
 言いながら、谷口は携帯を出した。
「あ、携帯の番号なら」と言いながら、井川も携帯を出す。谷口に彼の番号を教えてダイヤルさせる。一瞬井川の携帯が鳴る。同じ手続きを繰り返し、井川、芦沢、そして谷口の三人はお互い携帯番号を交換しあった。
「あの、何かわかったら私にも」井川が言いかける。
「必ず連絡します」芦沢が明言する。茂は驚いていた。地元の警察署では絶対にあり得ない事だと思った。


「で、その四人はわかった?」
「あの刑事を入れて三人まではなんとか」
「そう」
 瑠璃、雅恵、恵美の三人は、社長室の隣の部屋で打ち合わせをしていた。芳枝の報告を受けて、雅恵は瑠璃に連絡するとともにホテルのゴミ捨て場を漁っていた四人組の写真を密かに撮らせた。が、一人を除いては写真を撮るまでもなくその正体は判明した。写真を撮りに行ったのは和恵だったのだ。
「四人のうち二人は和恵ちゃんの知り合いですって?」
「聞いているわ」瑠璃が答える。和恵は、瑠璃にとっては使いやすい仲間だった。使いやすいだけでなく、非常に賢い。彼女は自分が失踪した事を消し去るために進んで身近な男たち、すなわち自分の店の元同僚を狙っていた。彼女に言わせるとしばらくは騒がれても半分以上入れ替わればそのうち忘れ去られるということだ。彼女はすでに二人をその手にかけている。そのうち一人は昨夜羽化し、昨夜干涸らびたもう一人も羽化しそうな雰囲気だ。強いて問題があるとすれば彼女が連れてきた者の羽化率が高いということだが、それは彼女の責任ではない。
 和恵は自らが引き入れた者達にも自分と同じように近しい者を狙わせるつもりでいるらしい。今日現れたその二人を見て、彼女は驚くとともに楽しむような笑みを浮かべていた。
「一人はウチの店長です。この間狙ったんですけど仕損じて・・・・ま、もうこちらには美香もいますから近々消せると思います。あともう一人はその、アルバイトの若い子です。店長、こういうところ面倒見がいいから・・・こっちも任せて下さい」
 瑠璃は即座に許可した。羽化する前の彼女たちに敵意を持っている者に顔見知りを使うのは考えものだが、反対に好意や同情を持っていた者に対しては効果的なのは和恵自身が証明している。順調にいけば数日後にはあの二人はこの建物の中で干涸らびることになるだろう。その後羽化するかは彼らの運次第だ。谷口についても、恵美が今夜狙うと言っていた。恵美に限って二度目の失敗はないだろうと瑠璃は思っている。問題は残りの一人だ。
 とりあえずホテル内の全員には見させたが、顔を知っている者はいなかった。ただ、雰囲気からしておそらく谷口の同僚の刑事だろうというのが大方の見方ではあった。瑠璃もそう思う。どちらにしろ、谷口がいなくなりすれば問題はないだろう。仮に捜査されたとしても何も出てこない。いわゆる犯罪行為は何もしていない。体液を吸い取って干涸らびさせたなど、誰が信じるものだろうか・・・・
 実際瑠璃にもなぜそうなるのかはわからない。彼女自身ももう今の姿になってから長年になるが、体や肌の張りが衰えたとは感じられないし、栄養、というのかどうかはわからないが食事をとると、少し疲れていたりしたときでもたちまち肌は艶やかに滑らかになり、人間でいうところのいわゆる「女の魅力」が増すように思える。
 だが、彼女たちは人間ではない。人間の、女の姿をしているとはいえ男と交わっても子供が産まれるわけではない。外見上一応それらしき器官はついているし、人間の性欲らしきものも芽生え、恋愛感情に近いものがないと言えば嘘になる。かといって交わろうとすることは本能が許さない。人間男性の生殖器官に近付くだけで彼女たちは理性を上回る食欲に支配されてしまう。食欲が満たされればそれで終わりだ。男に対してどんな感情を感じていても干涸らびてしまえばその男はいなくなる。つまり、彼女たちの感情や欲情は永久に満たされることがない。それは、彼女たちにとってはとても残酷な現実だった。
 結局のところ、自分たちが何なのかは彼女自身もわからない。人間でないことは確かだが、では一体何なのか?瑠璃の知識の中でこんな生き物は自分たち以外に見たことも聞いたこともない。だいたいにして生物というのは自分の子孫を残すのが最大の本能だと彼女は思っているが、彼女たちにはそれがない。その代わりに、おそらく寿命は長く、食事さえとれれば回復力は異様に高い。唯一増殖する方法というのは、干涸らびさせた男が羽化することだが、だからといって自分の遺伝子が残るわけではない。
 現実的に調査をすればいくらか謎は解明できるのかもしれないが、解明したからといってどうなるのか・・・・彼女たちが人間の男を食い物にするのは変わりないことだし、生きていくために環境を整えなければいけない事にも変わりはない。そしてそれは、人間にとっては好ましくないことに決まっている。
 だから・・・・瑠璃は思う。だからこそ、コソコソと日陰に隠れながら、密かに自分たちの安心できる場所を作ろうとしているのだと。しかし、彼女たちの方から見れば、必要なことでもあるし、「人」として当然の権利であるはずのことが、同じ姿をし、同じ事を考える人間たちにとっては「否定すべき事」なのだ。彼女たちのことが発覚したが最後、人間たちは彼女たちを排除するに決まっている。いまのところ自分たちがどんな生き物か彼らは知らないが、発覚すれば徹底的に調べられ、見分けられ、隔離され、排除される。そして彼女たちは滅んで行くしかないだろう。子孫を残せない生き物が滅ぶのは当然のことだと彼女は思うが、だからといって自分たちが滅んでいいわけがない。だいたい人間の中にも人を食い物にしている者は掃いて捨てるほどいる。それも生きていくためには直接関係ない自らの欲望のためだけにしていることだ。巧妙な方法で人々の目を盗み、人々を苦しめて・・・・それに比べれば、彼女たちのしていることはどれだけストレートなことか。生きていくために必要不可欠なことなのだ。そして、その食われる方はそれと引き替えにこの上ない快楽を得る。そして場合によっては羽化して仲間になる。仲間になるのは不幸なことかもしれない。長い寿命と同時にその長く生きる間の苦しみをも得ることになるからだ。
「そのもう一人、何とかなるかしら?」瑠璃が二人の顔を見る。
「谷口の動きに期待するしかない状態ですね」雅恵が答える。
「全員に回して。とりあえず気にせずいつもどおりの生活をすること。それとその男を見かけたらすぐに報告すること。指示なく絶対に手を出さないこと」
 瑠璃の指示に頷く二人。
「特に、組の連中。近いうちに、あいつら一人残らず片付けなければならないかもね・・・・」
「瑠璃さん・・・・」恵美が複雑な表情をした。彼女は瑠璃がそう思っていることは知っていたが、改めて口に出されると冷たいものが背筋を走るような気がする。瑠璃がやるときは徹底的なのだ。今日のサウナの一件が、それを物語っている。
「このことは瞳には内緒よ。瞳はそうは思っていても、やはり仲間には甘いから・・・」
 瑠璃がため息混じりに言う。そう、生き延びるためには躊躇しない。躊躇していれば自分たちが死ぬことになるのだ。瞳の求めているのは、安らげる生活のはずだ。それを妨げる者は排除するだけだ。
 打ち合わせは終わった。三人は、各々の居場所へ戻っていった。


 井川たちと別れて、谷口と芦沢は昼のラーメンを掻き込んでいた。足元には、汚い紙袋が置いてある。
「とりあえず、早急に鑑識に見てもらう」谷口は言った。
「でも、まだてんやわんやだろ」応える芦沢。あれから高中とも話をしていない。
「いや、そろそろいいんじゃないか?さっき、聞き込みに走っているやつ見たぜ」
「なるほどな・・・。で?」
「でって?」
「谷口としては、このまま放っておく気もないんだろ?」
「もちろん。でだ、署の方を頼みたい。俺は直接、月城瞳をあたる」
「なんだって?」驚く芦沢。彼は昨日谷口が瞳を直撃したことを知らない。
「でだ、もし結果が出たらすぐ俺に連絡が欲しい。それをネタに奴を追及する」
「一人でか?」
「まあな。彼女とは知らない仲でもない」どんぶりを持ち上げスープを飲む谷口。
「よせよ」
「何?」
「よせ。一人で乗り込むのは危険だ。事務所の連中が大挙して出てきたらどうするんだ?」
「やっぱりそう思うか?」
 谷口は、からかうように芦沢の顔を見る。
「あのなあ・・・」呆れるように返す芦沢。
「おまえがその気になってくれれば俺はいいんだ。実は昨日奴のところへは行った」
「奴って、月城瞳か?」
「そうだ」驚く芦沢。
「奴は、おじさんたちじゃなければ、知らないでもない、って言いやがった。ってことは、やっぱり知ってやがるっていうことだ。その、おじさん以外はな」
「ちょっと待て、意味がよくわからん」
「おじさん以外、つまり、なんか知らんが一応女になった連中はよく知ってるという事じゃないのか?」
「しかし・・・・」
「たしかに、全部が、その、ニューハーフかなんか知らんが女になったわけはねえ。そりゃあ無理がある。だが一人や二人でないことも確かだ。そいつらの事を聞いてみてもバチは当たらないと思うけどな」
 谷口は、どんぶりを置いて水をゴクリと流し込む。
「もしかしたら、こいつなにかはとんでもねえことかもしれん。俺は、こいつの持ち主にそっくりな女が現れてもちっとも驚かないぞ」
 足元のゴミ袋を指しながら言う谷口。
「しかし、何が目的だ?片っ端から捕まえた男ニューハーフにして何か儲かることでもあるのか?」芦沢は言った。当然、彼にはそんなことは想像もつかない。
「さあな・・・・だから、それが知りたいんだ」谷口が答える。結局谷口にも何が起こっているのか見当がつかないのだ。芦沢はため息をつきながら時計を見た。
「今何時だ?」時計は一時二十分を示している。
「署に帰って、鑑識に回して・・・・早くて明日」つぶやく芦沢。
「そうだな・・・・」
 席を立つ二人。金を払い外へ出ると、携帯が鳴った。
「早速だぜ・・・」谷口は携帯を取った。
 やはり何度ベルを押しても返答はなかった。川本はこのアパートで一人暮らしをしているはずだ。井川も茂も来るのははじめてだが、住所からすれば間違いない。ドアの表札部分にも申し訳なさそうにマジックで「カワモト」と書かれている。
「店長・・・・」心配そうな茂。
「いや、まだ決まったわけじゃない。もしかしたらどこかへ出掛けているだけかもしれないじゃないか」
 そう言いながら階段を下りる井川。と、その時、階段を下りたところにある部屋のドアが開き、初老の女が顔を出した。
「あんた、川本君のお友達かい?」
 唐突にかけられた声に立ち止まる井川。茂がぶつかり、一瞬よろける。
「友達?ああ、そう言えばそうですが」答える井川。
「川本君なら留守だよ。まったく、彼女でもできたのかねぇ」
「え?」井川と茂は顔を見合わせた。
「ああ、知らないならいいんだけど。最近どうも帰りが遅くてね。あの真面目な川本君が・・・こりゃあ、彼女ができたなと思ってたんだけど。昨夜なんて、結局帰ってこなかったから。私ゃもう随分とここを学生さんたちに貸してるけれど、男の子が帰って来ないっていうのは女のところと決まってるもんだよ。特に川本君なんて、会えば必ず挨拶するし、遅くても必ず帰ってくる子が部屋を空けるなんて、こりゃあ女だってピンときたわ」
 井川の経験上、こういう女性は話し出すと止まらない。学生相手にアパートを貸している大家だというのはわかる。こういう人々は大概にして自分では自覚していないがとにかく話し相手が欲しいのだ。おそらく川本も彼女によく捕まっていたに違いないと彼は思った。が、彼はその一言を聞き逃すようなヘマはしなかった。昨夜帰ってこなかったという一言を。
「あの」井川は、逆に大家に問いかけた。
「なんだい?」
「川本君、昨夜戻ってないんですか?」
「ああ、戻ってきてないよ。朝になっても帰ってこない。だからさ、あの子ももう年頃だし・・・・」
「彼のところによく来る友達とか、来たことのある女の子とか、心当たりあります?」井川は聞きたいことを聞いた。必要な情報だけを聞き出さない限り、この大家は無駄話を垂れ流し続けると彼の経験が言っている。
「よく来る子ねぇ・・・とりあえず女の子は連れてきたことないみたいだし、友達も・・・・最近帰ってくるの遅いから、あまり来ないねぇ。それで、あんたたちどういう友達だい?」
 今度は大家が井川に尋ねた。よくあるパターンだ。大家はその義務感から、入居人の交際範囲等の情報を聞きたがる。
「その、彼は私の店でアルバイトして貰っていて・・・・」答える井川。
「ああ、なるほど。だからかい・・・・どうもアンタ、学生にしちゃあ老けてると思ったんだよ」
(老けていて悪かったな)井川は内心そう思ったが、勿論そんなことは口にも顔にも出さない。横で茂が呆れたような、何と言っていいのかわからない顔で二人を見比べている。
「立ち話も何だから、ウチへ寄っていかないかい?」大家は嬉しそうな顔で二人に部屋に入るように促した。基本的に若い者が好きなのだ。当然、井川はご免被りたかった。軽く「いえ」と会釈し、摺り足で立ち去ろうとする。
「まあ、遠慮なんかしないで」
「いえ、遠慮しときます」井川は、引きつった笑いを浮かべながらアパートを後にした。横で茂が笑いを堪えて顔を歪めている。
 アパートからだいぶ離れて、井川はようやく息をつき、茂はついに吹き出した。
「おいおい、笑ってる場合じゃないぞ。中野君、川本君に彼女がいるとかそういう話、聞いたことあるか?」井川は、少し落ち着いて茂に聞いた。
「いいえ、川本さんいつも、女が欲しい!って口癖みたいに言ってましたから、店の女の子たちにも結構冷たい目で見られてたんじゃないですか?彼女がいるって感じじゃないですよね、少なくとも」
「ということは、間違いなさそうだな」井川は、携帯を取りだした。さっき登録したばかりの電話番号を探す。先に出てきた谷口の方を彼は押した。
「もしもし」
『ああ、どうも』谷口の声だ。
「川本君ですが、やはり昨日は帰ってないようです」
『だとすると、やはり・・・・・』
「一応、彼は今日も入っているので時間まで待ってはみますが、来なかったらもう一度電話します」
『わかりました。こちらも何かわかり次第連絡します。お店の方に電話するのは迷惑ですか?』谷口が言う。井川に気を使ってくれているのがわかる。井川は、警察に対する認識が少し変わった気がしていた。
「いいえ、結構です。逆に店の方が助かります。仕事中は携帯が鳴ってもわかりませんから」井川はそう答えた。それは本音でもあった。
『わかりました。ではまた』
 電話は切れた。
「中野君、どうする?俺はもう店に行ってるけれど」
「じゃあ、僕も行きます」
「わかった。じゃあ、何か昼飯食べよう。何がいいか?おごってやるよ」
 歩き始める井川。
「ラッキー!なんでもオッケーです」茂は笑った。


「高さん!」
「ああ、ようやく開放された」芦沢が署に戻ると、高中が自分のデスクに座って旨そうに煙草を吸っていた。辰巳会組長殺人事件は完全に本部に持って行かれていた。第一発見者であり、取調中の容疑者に自殺された高中は、いろいろとまるで容疑者のような扱いを受けながら捜査に協力させられていたが、ようやく開放されたのだ。
「で、宮下の方はどうだ?」高中は言った。自分が参加できない間、当然のようにずっと気にしていたのだ。
「宮下本人の足取りは掴めないんですが・・・・・」
「そうか。でもアシ、おまえその顔だと何か掴んだんじゃないのか?」
「ええ、まあ・・・」
 芦沢は、高中に今までのことをかいつまんで話した。異常な数の行方不明者のこと、失踪した兄のボールペンを拾った若者のこと、失踪者にあった共通点のようなもののこと、、ホテルの裏で拾った奇妙な粉と、同じ場所に服を捨てられていた若者に連絡が取れないこと、さらに、組員によく似た女とその妙な服装のこと・・・
「おいちょっと待てよ・・・・」
 高中が、不意に考え込んだ。
「何か?」
「その、顔色が悪かったって・・・・いや、そりゃあ組長を刺したんだ、そうなってもおかしくないが・・・」自分で考えをまとめるようにつぶやく高中。
「高さん?」
「いや、そういえば大下も妙に顔色が悪かったなと思ってな・・・・」
「大下?」
「ああ、組長刺した奴だ。今思えば、あいつも様子が変だったよな。顔色悪いし。確かに顔色が悪くなるようなことはしてやがる。だがなんか、なんていうか他人事みたいな顔しながら、自分が刺しました、なんて言うんだからな」
「でも高さん、それと失踪は・・・」
「関係ないかもしれないが、関係あるかもしれん。でも・・・」
「でも?」
「その組員らしいニューハーフ、参考人で引っ張れないか?」
「高さん、それは本部が・・・・それに本当にそうかどうかも・・・」
「バカ野郎。最初に発見したのは俺たちだ。それに俺は奴に目の前で首をくくられてるんだ。借りは返さないとな。それに、そいつがニューハーフだろうがなんだろうが、組のことを何か知ってるんじゃないのか?だったらゲロさせればいいじゃないか。もしかしたら宮下のことも何か知っているかもしれないぞ」
 確かに高中の言うとおりだった。谷口の気のせいかもしれないが、もし本当に彼女らが組の者だったとしたら・・・
 高中はさらに続けた。
「確かに、信じられないようなことばっかりだ。だがな、それは俺たちの常識から見ればのことだ。でも最近常識外れな事件が起こってばっかりじゃないのか?常識外れというか、信じられないような事件が・・・・これからはもっと予想外の事件が起こるだろう。俺たちはそれに対応していかねばならんのだ」
「高さんの言うとおりです」芦沢は認めた。ほんの小さな事でも見逃さない観察力と推理力、そして固定観念に縛られない想像力が彼らには要求されるのだ。
「それにおまえ言ってたじゃないか。その、失踪したのにそっくりな女が他でも目撃されてるんだろ?だったら、有り得ない話じゃない。むしろ誰かが何かの理由で組織的に性転換と全身整形でも行っていると考えた方がいいんじゃないのか?」
 高中の言葉に、芦沢は立ち上がった。
「よっしゃ。やる気になったか」満足そうな笑みを浮かべる高中。
「高さん、この件は課長には内緒で行きたいんです」
「当然だ。課長になんか言ったら大変だぞ」高中が笑いながら立ち上がった。
「よっしゃ、行くか」
 二人は外へ出た。


「わからねえな・・・・どうも組織的には人間の皮膚組織に似ているんだが・・・」
 谷口と鑑識の東条は、例の粉を見て首をひねっていた。東条は、谷口の顔を見て先に検証をしてくれているのだ。谷口ももちろんそれにつきあっている。
「似ているって、違うのかい?」回転椅子を後ろ前にして座る、つまり背もたれに腹をもたれかけている谷口が身を乗り出す。
「いや、損傷が酷くて、確証が持てないんだ。基本的にこの粉もジーンズに付いていた粉も同じものだと思うよ。あと、毛髪の方だが・・・」
「うんうん」椅子が倒れそうになるぐらいに乗り出す谷口。
「おいおい、よせよ、気持ち悪い」いきなり乗り出してくる谷口に少し呆れながら、東条は続けた。
「毛髪の方だが、やはり粉と同じように人間のものに極めて近いが、確証は持てん。だが」
「だが?」
「まあ、これはあくまでも俺の推理に過ぎないが、どうも人間の細胞が、何かに変化する途中で干涸らびたような感じなんじゃないかな」
「なんだ、よくわからん」
「だから、例えばだ」東条が紙に書く。
「こっちのサンプル、これをAとする。これはきわめて人間の皮膚組織に近い。が、このサンプルは全然違う。ところがだ、この二つのサンプルともにまったく同じ部分がある。他のサンプルを調べると、この中間のものがたくさんあるんだ。髪の毛にも同じ事が言える」
「で、結局これは何なんだ?」
「はっきり言ってわからん」東条は首をひねった。
「全部見るわけにはいかんが、Aはおそらく皮膚組織を含む人間のものだと思う。それが、干涸らびることによって何かに変化した・・・理由はわからん。それぐらいしか俺には言えんな。もっとも、これだけでも無茶苦茶なこじつけだ」
「現場を押さえないことにはどうにもならんということか」
「そのようだな」
「わかった。もう少し調べてみる。ありがとう」
「すまん、力になれなくて」頭を下げる東条。
「東条さんが謝る事じゃないよ。もう少し明確そうなの掴んでくるから、またお願いします」
 谷口は、そう言い残して町に戻った。


「やっぱり来ないな・・・・」
 開店まであと十分。井川と茂は心配してみていたが、やはり川本は現れなかった。その様子を見たのか、紀子が寄ってくる。
「店長・・・・」
「ああ。今度は川本か・・・・」
「店長、あの、ちょっといいですか」
 紀子が珍しく言い辛そうにしている。井川は彼女が茂のことを気にしているのを察した。
「あ、いいよ。中野君のことは気にしなくていい。実はね」
 井川は紀子に昨日から今日にかけての出来事を話した。話が進むうちに紀子の顔が怯えたような表情に変わっていく。
「どうしたんだ?」井川はそれを察して尋ねた。
「あたし・・・・取り返しのつかないことしちゃったのかもしれない・・・」下を向き震える紀子。ひざについている手の甲に、涙の粒が落ちる。
「おいおい、落ち着けよ。一体何があったんだ」
「あたし、昨日川本君と帰りが同じになったんです。で、川本君、エレベーター降りるまでは普通だったんですけど・・・・」
「降りてから、どうしたんだ?」
「エレベーター降りてから、急に別人みたいになって・・・・駅の方じゃなくて、奥の方へ行くんですよ。あたし、気になってつけてみたんです。で、噴水の前で・・・・」
 井川は、黙って紀子の顔を見つめた。急かさずに、彼女が落ち着くのを待つ。
「噴水の前に、あの人が現れたんですよ」
「あの人?」
「この前、閉店後に来た女の人いたじゃないですか」
 井川の顔が険しくなる。紀子の感じた怯えの原因を、彼ははっきりと理解した。
「あの女の人が、川本君に、なんていうか・・・・キスしたんですけど、なんか感情こもってないっていうか、何かの手続きみたいな感じで、そしたら川本君、まるで操り人形みたいにその女の人に連れて行かれちゃったんです・・・・」
「操り人形?どういうこと?」
「っていうか、夢遊病みたいっていうか・・・・表情も嬉しいとかそういう感じじゃなくて、ぼうっとしてるみたいな・・・・・あたし・・・」
 紀子が頭を抱える。
「ありがとう」井川がこれ以上ない優しい声で言う。
「てんちょう」紀子の涙声。井川は、茂に目で合図した。茂が軽く頭を下げて向こうの方へ行く。紀子を引き寄せる井川。胸が、涙で濡れる。
 しばらくして落ち着いたのか紀子はゆっくりと井川の胸から顔を離した。
「ごめんなさい。あたし・・・・」紀子が恥ずかしそうに目を逸らす。
「いいよ。この件は警察に任せよう。それと、これからも顔色の悪いのがいたら気を付けるようにしよう」
 はい、と頷いて準備に戻る紀子。それを井川が呼び止めた。彼女が振り向く。
「今日は、送るよ」
 一瞬きょとんとした顔になる紀子。彼女は涙を拭いて精一杯嬉しそうな微笑みを見せると仕事に戻っていった。
「さてと」電話を取る井川。リダイヤルで谷口の電話番号を探す。
 プップップップップップと、繋いでいる音のあとに呼び出し音が鳴り。谷口が出た。
「もしもし」
『ああ、どうも』雑踏の音が混じって聞こえる。どうやら外のようだ。
「あの、ウチの川本の件ですが・・・・」
『はい』
「やはり、のようです」
『そうですか。すみません、こちら鑑識の方では今のところ手がかりが掴めていません』
「それと、谷口さん」
『はい』
「その件について手掛かりが・・・よかったら店の方に寄っていただけませんか?電話では少し」
『わかりました。すぐに行きます』
 電話は切れた。
(一体何が起こっているんだ・・・)今更ながら、井川はため息をついた。


 瞳はいつものように窓から見える「下界」を見下ろしていた。街の灯りが彼女に与えるものは、最近は孤独感以外の何物でもなかった。生活には何一つ不自由していない。瑠璃やその下の者達はよくやってくれている。端から見れば、起業家として上手くいっているように見えるだろう。
 しかし・・・・彼女は人間ではない。それは彼女が一番よく知っている。結局のところ、彼女が最近感じているのは、人間ではないのに人間らしい幸福を追求している自分の矛盾だった。今彼女が手にしているものが幸せならば、である。
 一人で生きていくのは寂しい。寂しすぎる。が、それは彼女が人間のような意識を持っているからだ。その身体と同じように、意識も人間でなくなってしまえばどんなに楽なことかと彼女は思う。なまじ人間のような意識があるからこそ、気に入った男がいれば恋愛感情のようなものが芽生えるし、それを消さずにいられない自分に罪悪感を感じるのだ。瑠璃は景山ではない。彼女は確かに景山を愛していたと思う。しかし、その景山をこの世から消し去ったのは彼女自身に他ならない。瑠璃は、彼女にとってはじめての理解者であったが、瑠璃の羽化は、彼女から永久に景山を奪ってしまった。景山のことを思い出として残すことすら、運命は許してくれなかったのだ。
 恋愛感情というものは、彼女にはもっとも原始的な欲求の一つであると思える。それに従い、自分と相手との遺伝子を残そうとするのは人間の本能であるはずなのだが、どういうわけか人間でなくなった自分にもその本能のようなものが残っているのが彼女には恨めしかった。どんなに愛しても、絶対にその相手の子供を産むことはできない。さらに思えば不思議なことに彼女にはそういう女性の本能のようなものが存在する。元は男だったはずなのにだ。男の本能を女の本能に変えるのならば、どうして人間そのものでなくしてくれなかったのか・・・・彼女に答えてくれるものは、この世にはおそらく存在しない。彼女をこういう存在にしたあの女でさえも、答えてくれるとは思えない。
 あるいはそれなりの施設で検査を行えば、その答えは出るのかもしれない。しかし、そんなことができるわけがなかった。さんざん研究対象にされた挙げ句、彼女たちは人間に害をなす存在であると決めつけられ、駆除されるのがオチだ。そんな馬鹿な話があるだろうか?自分を否定されるために検査を受けるなどおかしな話だ。
 人間の体液を食料にしている以上、人間との共存は不可能だ。彼女たちの前に喜んで自分の命を投げ出す者がいるだろうか?答えはノーだ。もし仮にいたとしても、それは共存とは言わない。単なる食物連鎖だ。食物連鎖で上位にいるものは、常に下位の者よりも数が少ない。しかし、彼女たちの下位にいるものは、現実には彼女たちよりも強力で、環境に対する適応力も強く、集団として生き残ろうという意志も強い。そしてなにより、その生き物は、今までにいくつもの食物連鎖を破壊してきた。彼女たちに対しても容赦なく同じ事をするだろう。
 だからこそ、なのかはわからないが、彼女たちにはどういうわけかその相手を操ることのできる能力がある。しかしそれがまた彼女たちを苦悩させる。彼女たちに近付けば近付くほど、彼女たちが心を寄せた男は自我を失ってしまう。つまり、彼女たちは人間で言うところの愛情を男から感じることができなくなってしまうのだ。そんな運命を受け入れている自分たちは、一体何なのか・・・・
 瞳は、自分が生き残っていくために今の地位を築き上げていった。しかし、その位置が確立すればするほど、彼女の中には大きな孤独感が広がっていくのだった。
「瞳・・・・」
 瑠璃が部屋に入ってくる。瞳はいつものように一瞬寂しげな視線を瑠璃に向けると、また夜の街に視線を戻した。
「また、物思い・・・?」瑠璃が後ろから声をかける。
「そうよ。いけないかしら」
「ううん、いいのよ。それより、例のマンション、来週早々に話がつきそうです。早ければ来週末からでも」
「そう・・・・」気のない返事をする瞳。
「どうしたの?」瞳の元気がないのが気になるのか、瑠璃は心配そうな顔をする。
「いいえ・・・・本当にこれでよかったのかしら」
「これでって・・・」驚く瑠璃。
「確かに、手には入るものはすべて手に入れたわ。お金も、このホテルも、それにマンションも手にはいるのよね。でも・・・」
「でも?」
「なんか虚しいのよ。ここは確かに安心して暮らせる場所よ。直射日光に当たることもない。空調も完璧。食料は確保できる。逃げようと思えばすぐ近くに地下街もある・・・・でもね、瑠璃さん」
 振り返る瞳。瑠璃が、困ったような顔で瞳を見る。
「なぜか私、落ち着かないのよ。落ち着かないというか、そう、安らがない・・・・二人で暮らしていたあのマンション、憶えていて?」
「ええ・・・・」瑠璃が肯く。
「ここや今の私の部屋に比べたら、確かに住み心地は悪かったし、風通しは悪いし、カーテンを閉め切らなくちゃ昼間はいられなかった。でも、私にとってはとても安らげる場所だった・・・・あなたもいたし」
「瞳・・・」
「ねえ、どうして?私たちにはささやかな幸せを掴む権利はないというの?人間の身体でなくなったら、人の幸せを掴むことはできないというの?」
 瑠璃は困ったような表情のまま答えない。それは仕方がないことだ。瑠璃はそれに対する答えは持ち合わせてはいないのだ。いや、それに対する答えを出すのが不可能なことを知っているからこそ、瑠璃は瑠璃なりに、瞳のためにできるだけのことをした。それが今の瞳の地位であり、立場だった。瞳はもちろん、瑠璃を感謝こそすれ恨んではいない。自分が言うのも無茶なことだとわかっている。だからこそ、やり場のない想いを瑠璃にぶつけてしまうのだ。瞳が心を許せるのは、瑠璃だけなのかもしれなかった。
「瞳」暫くの沈黙のあと、瑠璃が口を開いた。
「ごめんね。私が急がせすぎたのね」
 瞳が首を振る。瞳は、そのまま瑠璃に身を預けた。
「いいえ・・・・私の方こそごめんね、瑠璃・・・・」
 瞳を抱き留める瑠璃。瑠璃は優しい。景山だった時も優しかった。しかし、瑠璃は景山ではない。
「もう少し辛抱しててね・・・・私が必ず瞳の安らげる場所を作ってみせるわ」
「瑠璃・・・」
 瞳は、わだかまる複雑な想いを胸に、瑠璃の胸に顔を埋めた。


「なるほど・・・・そうするとその、川本さんはその以前ここでアルバイトしていた大沢さんによく似た女性とともにどこかへ行ったわけですね。それも虚ろな表情で」
 谷口がメモを取る。席には谷口の他に、芦沢と高中が座っていた。二人は風俗店「ヴァンプKISS」の周辺やそのビルの関係者の間を聞き込んで回っているときに谷口に呼び出されたのだ。
「失礼します」軽く会釈して、紀子が飲み物を運んでくる。店は営業中だ。
「ああどうも・・・いやでもこれは・・・」飲み物を遠慮しようとする芦沢を高中が押さえる。
「馬鹿!時と場合によるんだ。すみません、頂きます」高中がグラスを取る。
「最近うるさくてね」紀子に微笑みかける高中。思わず紀子の顔にも笑みがこぼれる。
 紀子が戻ったあと、高中が聞いた。
「今のが、そのお嬢さん?」
「そうです。でも、かなり責任を感じているようなので・・・・」
「なるほど」井川の説明に深く頷く高中。
「しかし・・・・やはり彼女から直接お話を聞くわけには行きませんかね?」高中が井川に聞く。井川は、しばらく考えた後、紀子を呼んだ。
「はい・・・・」やってくる紀子。
「悪いな・・・座ってくれるか」
 井川の言葉に従い、井川に寄り添うように紀子は席に着いた。
「お嬢さん」高中が口を開いた。
「事情は井川さんから伺いました。お気持ちはお察しします。あなたもご存じのとおり、我々は百パーセント市民の皆さんの暮らしを守れるわけではありません。しかし、そこに何かがある以上放ってはおけんのです。一刻も早くあなたの不安を解決できるように努力はするつもりです。ですから、どうかお話を聞かせて下さい」
 高中は深々と頭を下げた。と同時に芦沢の頭も押さえて下げさせる。紀子は困惑して井川の顔を見たが、井川が頷くのを見て小さな声で「はい」と返事をした。
「谷口、頼むぞ」
 頷く谷口。新しいページを開く。
「まずこちらの持っている情報をお話しします」高中が話し始めた。芦沢が驚いたように高中の顔を見たが、高中はそのまま続けた。
「我々と井川さん、そして中野さんが見つけたゴミ袋の中のものを、鑑識の方で分析しました。細かいことはまだわかりませんが、粉のようなものは人間の皮膚組織に極めて近いものでしたが確定はできていません。毛髪も同様、人間のものに極めて近いが確定には至っていません。しかし、それから推測するにどうやらそれは人間の皮膚組織が何らかの変化を起こしたものではないかと我々は推理しています」
「変化?どんな?」井川が聞く。
「それはわかりません」谷口が答える。
「とりあえず、人間に近いものと、人間からかけ離れたもの、そしてその中間のものがあることがわかっています。人間からかけ離れたものがなんなのかはまったくわかっていません」
「ゾンビ・・・・」つぶやく紀子。
「ゾンビ?」芦沢が聞き返す。高中も紀子に注目した。
「ええ。あの、なんかそんな気がしたものですから」紀子は落ち着いている。
「詳しく話してもらえませんか?」高中が言う。その表情には、馬鹿にしたような雰囲気はまったく見られない。
「はい、川本君、エレベーターを降りるまではすごく普通で、顔色以外はすごく元気だったんですけど、降りてこのビルを出た途端になんか、突然人が変わったように大人しくなって・・・・・なんていうか、その時の感じがまるでゾンビみたいだなって。あるじゃないですか、あの、両手を前に出して、こんな」
 紀子はやってみせた。両手を出して、カクカクと体を揺らしてみせる。
「なるほど・・・・・」頷く高中。
「で、その後、あの女の人がやって来て、川本君にキスしたんです」
「あの女の人・・・・その、大沢さんという方に似ているという?」
「そうです。そうしたら、今度はその女の人にまるで操られるみたいに一緒に」
「操られるか・・・・・」芦沢が顎に指を当てて頷く。
「高さん」芦沢が言う。
「何だ?」
「その、ゾンビとか操られるとかって、あの顔の事じゃないですか?」
「あの顔?」今度は井川が聞き返す。
「ええ」答えるのは谷口だ。
「私たちが今までに張り込んだ中で、何度か目撃しているのですが、あのホテルに出入りする男の顔が、どれも心ここにあらずというか、まるでクスリでもやっているような顔だなと思っていたのです」
「心ここにあらず、それだわ」紀子が言う。「その表現が合うと思います」
「やはりな・・・・その女性、あのホテルに出入りしている可能性があるかもしれないな」高中が言った。
「そうですね。その女性の写真か何かお持ちでないですか?」芦沢が聞く。
「ないですよ・・・・いくら何でも・・・ん、ちょっと待って下さい」井川が思いだしたように立ち上がった。少しして、戻ってきた井川が抱えていたのは、たくさんの履歴書だった。
「えーと・・・・あった。これです」
 井川が出したのは、大沢の履歴書だった。証明用の写真がついている。
「なるほど・・・この若者に似ている女性ということですね」履歴書を眺めながら芦沢が言う。
「谷口、見なかったか?」履歴書を谷口に回す芦沢。谷口はしばらく眺めていたが、首を振ってそれを返した。
「わからん。というよりそういう意識で見ていなかったからな・・・・」
「そうか・・・あ、その、昨日彼女に連れていかれたという子のはありますか?」
 高中の問いに、井川が探す。しばらくするとそれは見つかった。
「この子です」履歴書を渡す井川。
「この二枚、お借りできますか?」高中が言う。
「ええ。あともう一枚」井川はもう一枚の履歴書を取り出す。
「これは?」
「もう一人連絡の取れなくなった、三上というものです」
「そうですか・・・・」受け取る高中。
「あの・・・」申し訳なさそうに口を開く紀子。
「何でしょう?」応える芦沢。
「話飛んですみません、その粉とか毛髪とか、男性とか女性はわかるんですか?」
 谷口の顔を見る高中。
「それはわかっていません。それが・・・・あ、なるほど」頷く谷口。
「何だ?」聞く高中。
「つまり、男性から女性に変化するような事があるのじゃないかと、そういうことですね」谷口が言う。紀子は肯いた。
「はい。もしかしてその過程で、皮がむけるとか・・・・」
 なるほど、と頷く一同。
「興味深い意見だ。ちなみにあの粉、水分が完全に失われていました」谷口が補足する。
「もしあれが大沢さんだとしても、一週間かそこらであれだけ細くなるのは無理だと思うんですよね・・・・でも、あるわけないか」紀子も続けるが、自分で言って恥ずかしかったのか、首をひねった。
「いえお嬢さん」高中が真面目な表情で言う。
「絶対にあり得ないかと言えばそうではありません。現に谷口も、彼が知っている暴力団関係者によく似た女に会っています。可能性としては低いとは思いますが、SF映画のように誰かが怪しげなクスリの人体実験をしていることだってあり得るんです。いつぞやの、宗教団体のテロ事件がありましたでしょ?あんなこと誰も予測していなかった。しかし現実にあれは起こったんです。ましてや人体実験などSF映画の中ではあるようなことだ。誰かがそれにインスピレーションを得てわけの分からないものを作り出したかもしれません」
「はあ・・・」紀子は、わかったようなわからないような顔をした。
「とにかく、我々はもう少しあのホテルと、系列の風俗店を調査してみます。何かあったら必ず連絡しますので」高中が立ち上がる。谷口と芦沢もそれに習った。
「とても参考になりました。我々も全力を挙げて調査しますので・・・・もちろん、中野さんのお兄さんについても全力で捜索します。大変お邪魔しました」
 店を出ていく三人。井川と紀子は、軽く会釈して彼らを見送った。
「店長・・・・」困惑した顔の紀子。
「ああ、なんだか大変なことになったみたいだな」井川も、ここまで荒唐無稽な話になるとは思っていなかったのか、ふう、とため息をついた。


「いいわね。よく憶えるのよ・・・」  女の声に、コクンと頷く男。サラリーマンふうの、ごく普通の背広を着たその男はどこか虚ろな目で写真を眺めている。
 その男の手に、女は何かを握らせる。それは、光る何かだった。夕暮れ時というのにサングラスをかけ、男とは不釣り合いのようなブランドもののスーツを着たその女は、微笑みながらやはり男とは釣り合わなさそうなベンツをゆっくりと出した。微笑んだその目が、男ではなく路上の誰かを追っている。やがて繁華街の裏通り、違法駐車の列に、女は車を割り込ませた。エンジンを切って、女はもう一度男の首に腕を回しねっとりとしたキスをした。
「車を降りたら、私のことは全部忘れなさい。あなたはなにかムシャクシャしているの。だから、相手は誰でもいいのよ。たまたま、その男が気に入らなかっただけ。その男は、この先にいるわ」
 唇を離し、目を覗き込みながら囁く女に男は虚ろな目のままもう一度頷く。
「さあ、お行き」男を突き放す女。男は、何も反応せずただ女に言われたように車を降りた。ドアが閉まる。女は、ラジオのスイッチを入れてチューナーをいじりはじめた。


「何だと思う?」高中は歩きながら二人に聞く。
「何だか・・・・余計にわからなくなりましたね」答える芦沢。
「だがだ、とりあえず辰巳会と横山組、それとあそこの店の連続失踪は関連性があるんじゃないのか」谷口が言う。
「そのとおりだ。鍵はあのホテルにある」高中がまとめる。
「で、どうします?」言うのは芦沢だ。
「とりあえず、谷口は東条さんに言ってその、人が何かに変化した可能性を考えてくれ。ああは言ったが自分でもちょっと考えにくいとは思っているんだ。ただ、例えば硫酸をかけたあと乾かしたとか、そういう異常な事件の可能性はある。もしかしたら異常な殺人事件かもしれないぞ」
「それも、連続大量」芦沢が高中に付け足す。