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ブラック・ランナーズ

作:猫野 丸太丸

 

 反響する銃声から間合いを取りながら、修治は走った。廃墟となった病院、病室の前を通り過ぎるたびに彼は拳銃を構え、周囲に注意を向ける。それでいいのかは分からない。ただテレビドラマで見た刑事の仕草をまねて、修治は走った。
 病院の窓から見えるのは崩れたビル、横転した自動車、水浸しの道路。人影はない。

 いまの彼に黙って近づいてくる奴は、すなわち敵だ。

 しかし戦争どころかサバイバルゲームすらやったことのない修治に、この状況は疲労を感じさせるものであった。彼は壁の壊れていない病室に入って戸を閉めた。命を賭したゲーム中にそのようなことをしてはならないと思いつつも、もたれかかって一息ついた。

 油断していた窓から来られた。しまったと思うまもなく横面を張り飛ばされる。それでも転がりながら二発撃った。ギアが壊れる金属音とともに、なにかが床に落ちる。
「リモコンヘリ?」
 修治の頬はそいつの回転翼(ローター)で切り裂かれたのであった。
「当たったかな……」
 機械油の焦げる嫌なにおいだ。彼はそのひとかかえほどもある機械を、つま先で蹴った。動かない。
「ちくしょう、素人相手にこんなもんまで使うなんて。ハンターのやつ」
 修治はゲームの係員に教えられたとおりに銃をロックし、弾倉を抜き取り、新しい弾を詰めた。型どおりにやって再度構える。扉に背を向けた。これも油断である。
 彼の背中に、硬いものが押しつけられた。
「はい、またひとり死亡」
「ま、待て」
「おまえが拳銃を捨てろ! 両手を挙げて、ゆっくりと振り向きな。俺様の顔を拝ませてやる」
 修治は言われたとおりにした。彼を追っていた刺客の男は上品に栗色の髪をなでつけながら、修治にウインクをして見せた。
「足も開け。……ランナーって奴は顔しかないくせに、どいつを見てもしけた面してやがんなぁ」
 男は勝手に語り始めた。
「俺はマイケル、二九歳男性、妻子なし。この第一ゲームで手がけたランナーは、おまえを入れて九百九十九人だ。頬の傷はランナーにやられたんじゃない、十五のときにドーベルマンと格闘したのさ……。性格は経歴通り荒っぽい。これが俺の手に入れた『個性』。お分かり?」
 修治が憮然としてみせると、そのマイケルという男はのどで笑った。
「はいはい、その負け犬な表情したまま消えちまいなさい」
 ブラックナンナーの証である修治の黒いタイツ、その心臓をめがけてマイケルは銃を構え直した。
 修治は小さな動作で伏せた。目の前の黒がいきなり窓からの陽光に変わってマイケルは眼をしかめる。それと同時に何者かに肩を撃たれ、床の修治にすねを蹴られた。マイケルは膝をついた。
「もうひとりいたのかよ!」
 マイケルは無線で、窓の外に待機させていた三機のリモコンヘリに緊急突入(スクランブル)を命じた。ヘリはパターン認識で見つけた動くものを自動的に撃つのだ。自分は瓦礫の影に逃げ込みながら、ひゃははと笑う。
「死ね死ねぇ」
 何発かの銃声のあと、マイケルはそっと顔を出して部屋を見渡した。修治はもういない。マイケルは肩の傷を押さえた。
「ひえっ、痛てっ」
 一瞬怯えたような表情を浮かべたあと、彼は本部の救援を呼んだ。
「俺の大事な身体を傷つけやがって。あとでぶっ殺してやる」

 修治は廃墟の病院を抜け出していた。隣りにはさっき知り合ったランナーがいる。
「ね、うまくいったでしょ」
「おかげで銃をなくした」
 修治は睨みつけたが、彼と同じ全身タイツを着たそいつはただにっこりと笑うだけだった。修治におとり役をさせておきながら、いい度胸だった。
「ゴールまでの我慢よ。第一ゲームで半数は脱落するのが普通なんだから、命が助かっただけでもありがたいと思いなさい」
 ヘリが飛んでこないか、そいつは何度も周囲を見回した。
「敵にはこっちの位置が筒抜けなんだから。じきに追ってくるわよ」
 ハンターに命を狙われているのに、その言葉には余裕すら感じられる。修治はつぶやいた。
「おまえ、なにもんだ?」
「あたしは望」
 望は、デイバッグから絆創膏を取り出して修治の頬に貼った。きめ細やかな指の動きが女を感じさせる。だが黒いタイツに包まれた身体には、柔らかい脂肪も乳房の膨らみもなかった。外見から彼女が女だと分かるのは、タイツに包まれていない顔だけである。それが、修治を含めたブラック・ランナーたちの特徴だった。

 個性という言葉が、かつてあった。その弊害が指摘されたのは二十一世紀半ばである。
 現代人たちのあいだで古き良識や道徳は息を潜め、価値観の多様化はついに互いが互いのことをまったく理解できないまでに悪化した。家庭でも社会でも、人は他人の行動を常識で予測できなくなったのだ。暗黙のルールも世間体も通用しない民衆によって公共の利益は損なわれ、すべてを説明責任で確認しなければならない人間関係が極度の精神の疲労をもたらした。会社も学校も成り立たず、人殺しがなぜいけないかの共通認識もない者同士で殺し合いにも似た諍(いさか)いが横行した。
 それに対して二〇八〇年、世界各国が踏み切ったのが「個性保護法」である。「個性」とは体型・顔形・思考パターン・記憶などの個体パラメーターから、資産・地位などの社会的パラメーターまでを含む。
 それはヒトゲノム計画に端を発する「人間のコード化」であり、国民は成人に達するまでに等しくその個人データ――上記の「個性」の主成分を中央のメインコンピューターに記録された。そして個性を抜き取られた身体には人間の標準データが上書きされる。その人間の生涯にふさわしい外見、ふさわしい行動パターン、ふさわしい思い出。こうして、人間はだれしもが平等に扱える「ふつうの人間」になったのである。
 個性保護法により、国家からは差別や能力格差が消失した。世界は、退屈だが穏やかな時代を迎えた。

 ただし、この政策はあくまで強制ではない。個性を保護されるに当たって、希望者は「異議申し立て」をすることができる。その者は個性剥奪を猶予され、命がけのゲームに参加した。そこで勝利すれば、自らの個性を失う代わりにデータバンクから好きな個性をダウンロードして身につけることができるのだ。それが「ブラック・ランナーズ制度」である。

 夜、修治は砕いた廃材をたき火に放りこみながら望のおしゃべりを聞いていた。雑居ビルの建ち並ぶ狭い道路の真ん中で月明かりもない晩、お互いの顔だけが闇に浮かび上がっている。
「というわけで、ろくな時代じゃないわけよ、いまは」
 望はやっと一息ついた。修治は肩をすくめた。
「だけどさ、この街が廃墟になったのだって、その個性をだいじにされた民衆のせいだぜ」
「だからって国家による一元管理なんてことする? ファシズムじゃあるまいし」
「それ以外の方法でどうやって互いに分かり合えるんだい? 人のエゴやモラル無視が横行してればさ、逆らってそいつに自分の常識を押しつければ、こんどは『おまえのほうが身勝手だ』と言われるんだぜ」
 望はにやりと笑って、水筒を差し出した。驚いたことに中身は日本酒だ。
「あんたけっこう話せるわね。最近の若い子はちょっとつついただけでキレるか自己否定に陥るのに」
「そう言うあんたは――、古いタイプの活動家だろ。大学なんかで覆面にヘルメットかぶって、変な活字のビラ配ってるんだ」
「ひっどい、ステレオタイプ」
 よく笑う女だった。そういえば、「よく笑う女」なんてここのところお目にかかっていなかった。

 望は個性保護法をファシズムのように言うが、いまどき民衆に支持されていない政策など行われるはずがない。みな、個性を返上することをこころのどこかで望んでいたのだ。
 修治の高校で、嫌われている級友が早めの処置を受けてふつうの人間になって帰ってきたときの、クラスのなんとなくほっとしたような雰囲気が思い出される。いつキレるか分からない面倒な性格のやつと付き合うのは敬遠したい、そんな気持ちが誰にもあったのだ。「笑われたのにかっとなって女子生徒を刺殺」する事件はなくなった。それがだんだんエスカレートしていき、ついにはよく笑う少女すらいなくなる。
 修治もそんな世の中を当たり前と思っていた。つい先月までは。
「来たわよ、修治くん」
 望がバケツの水をたき火にかけた。一瞬で周囲が暗闇になる。修治は手探りで後退し、商店の腐った陳列棚の間に座りこんだ。武器がない修治はそうやって隠れていろとの、望の命令だ。
 機械の羽音がした。リモコンヘリだ。そして機体に取り付けた拡声器からは、マイケルの声。
「はいはい二匹のブラック・ランナーさん。あなたたちは完全に包囲されてますっての」
 ヘリが機銃を撃った。どこかの建物の窓ガラスが割れる。
「おとなしく出てきなさい。出てこなければ……しらみ潰しに撃ち殺してやるぜ」
 ヘリの音が近づいてくる。しかも修治のいる側の店だけを撃っているようだ。はじめから、こちらの居場所を知っているのだ。
 ほんとうにここにいていいのだろうか? しかし、いま飛び出せばそれこそマイケルの思うつぼだという気がする。修治は我慢して待った。
「望……さん」
 もちろん返事はない。

 隣りのビルのショーウィンドウが破壊された。
「どうした。身動き取れずに、これで終わりかぁ?」
 マイケルの声を張り上げながら――ヘリはその軽い機体を廃墟の間に進め――たき火で温まった身体を探して――機銃の狙いをつけるために俯角を取った。

 がぎぎぎという異常音とともに一機が壊れた。闇の中からいきなり目の前に落ちてきたので、修治は叫びそうになる。
(だめだ。動いちゃだめだ、動いちゃ……)
 頭上で爆発音がした! 彼のいる一階の店舗内にも埃が舞う。
「どうなってんだよ!」
 たしかに望は二階になにか仕掛けていた。中身の残ったプロパンガスのボンベなんかどうするのかと思ったら、爆発させるなんて。耳が痛む。
 埃がいつまでも止まないので、修治は建物が倒壊するのではないかという恐怖に捕らわれた。
「ちっくしょお!」
 修治は飛び出した。爆発の灯のもとで道路がうっすらと見える。出たところで、三機めのヘリに対面した。
 真正面のヘリがカメラアイで修治をじっと見る。
(……死んだ)
 そのとき、反対側のビルからなにかがヘリの真上に降ってきた。踏みつけられたヘリはアスファルトに叩きつけられ、誤作動で銃を何発か撃った。
「ハロー」
 仁王のごとく機械を踏みつけているのは望だった。流れ弾が当たったらどうするつもりだったのだろうか。修治は薄ら笑いを浮かべるしかなかった。
「あんた、ふつうじゃねえよ」
「はい、つぎは全力で走る!」
 頭に着けたランプのスイッチをひねり、修治は結局言われたとおりにした。自分はまたヘリを引きつけるおとりにされたのだろう。ずっと背後ではマイケルの
「どうなってやがんだ!」
の叫び声が響く。こちらの明かりを頼りに追ってくるが、派手な音がしたのは、撒いておいたがらくたに足を引っかけて転んだのだろう。

 一キロメートルほど行った先にあったふとん屋で、修治はぐっすりと眠ることができた。安全が嬉しくて、ふとんに虫が付いていたのも気にならないほどだった。
「さっきはいったいどうやったんだよ」
「あのへり? 赤外線カメラなんか使ってたから簡単にはめられたわ」
 たき火と修治自身でヘリをおびき出し、道路に何本も張り渡した洗濯ロープで翼を絡め取る。そんな作戦でうまくいくなんて、彼女は以前おなじことを試したことがあったのだろうか。
「余裕の勝利ってわけか」
「あの状況ならもちろん。真っ昼間に広いところで狙われれば完敗なのにね」
 望が布団の間からいたずらっぽく顔を出す。
「あの廃墟で戦闘しなさいって、最初に決まってるんだもの。しょせんはゲームだわ」

 寝ぐらからゴールまではすぐだった。第一区間のゴールは、かつては芝生の広場だったのだろう更地に設置されていた。建物の陰から出て歩いていこうとする望を、修治が呼び止めた。
「危ないんじゃないの?」
「ゴール周囲二百メートルは安全地帯。ここで待ち伏せするだけでランナーを殺せるなら、ゲームが成り立たないでしょ」
 そう言った望の足下の舗装が弾けた。
「動くな動くなおらぁ!」
 マイケルが目の前に立ち、銃を構えていた。恐慌した修治が叫ぶ。
「なんだよ、ルール違反なんだろ!」
「線からこっち側はまだゲーム続行だぜ。最後にまた油断したなぁ?」
 マイケルの結膜が充血している。
「おまえらみたいなのをゴールさせちまったら、『マイケル』をくびになるじゃねえかよ」
 マイケルがよく狙わずにまた撃った。修治は一歩も動けない。マイケルのにやにやにや顔が、死霊のようにやせて見えた。
「俺が傷つけられていいわけねえんだぁ! 俺――あたし、昔っから言うこと聞かない悪い子は大っ嫌い」
 マイケルの動きがおかしい。その身体にモザイクのようなノイズがかかり、ちらと別人の姿が映る。上書きされた「マイケルという個性」が剥がれ、正体が見えかけているのだ。オリジナルの個性が、傷の痛みによって噴き出しつつあった。
「乳飲み子抱えて独りで生きて行けっていうの? まだ若いのに冗談じゃない、あたしはもっと楽な人生を……」
 そこまで言ったところでマイケルはふらつき、その背中が――安全地帯のラインを越えた。
 いきなりマイケルの頭が砕かれた。
「えっ」
 修治は望が拳銃を構えているのを見た。遠距離だったのに一発で撃ち抜いたのだろうか。修治を気にすることもなく望はマイケルに駆け寄り、とどめを何発も撃ちこんだ。
「はい、死んだ? 死んだ? ちゃんと死んだ? ほら、もう一発。死んだ……」
「おい、もう止めろよ、あんた!」
 手を出した修治を、望は胡散臭そうな眼で見返した。
「なによ。第二ゲームで新しい武器がもらえるから。この弾は節約しなくてもいいのよ」
「そうじゃないだろ!」
 修治は望の硬い身体に両手を巻きつけた。望は撃つのを止めて、修治に強烈な肘鉄を食らわせる。
「危ないからとっとと離しなさい、ばか!」
 怖くなった修治は身をすくませてしゃがんだ。望はそのあいだに、丁寧に銃をロックした。
「いい、これは遊びじゃないの。今の今だって死んでたのはあたしたちのほうかもしれなかったのよ。自殺願望かなんかでこのゲームに参加したんだったら、邪魔だからどっか別のところで勝手に死んで」
「そんなんじゃねえよ! そんなんじゃないけど……。なにをやったっていいわけじゃ、ないだろ……」

 修治は死体を見た。
 個性を書き換えられた人間は、死んだときに本来の姿を取り戻す。顔は潰れていたが、マイケルの身体は女性のものに変わっていた。修治はさっきの台詞を思い出して目をつぶる。ハンターになる前の彼女は、母親だったのだろうか。

 

 

 ブラック・ランナーズが志願者の集まりなら、ハンターもまた公募である。ゲームは四つの内容に分かれ、それぞれのゲームを決まったハンターが担当する。もちろんハンター志願者とて個性保護法の例外にあるわけではない。彼らも個性を剥奪され、ゲームにふさわしいハンターとしての個性を植え付けられるわけだ。
 ゲーム開始当初は、過去の犯罪歴が消えるうえに公認でサディスティックな行為に浸れるということで、ハンター志願者には凶悪犯罪者や死刑囚が多かった。
 しかし個性の消えた時代、変質的な犯罪者もほとんど現れない今は、ハンターのなり手もずっと減ってしまったという。

「ってね、ハンターなんてそんな連中なのよ。必要以上の哀れみも恐怖も抱いてやる必要ないわ」
 さっきの行為に多少は罪の意識を感じるのか、ジープのハンドルを握りながら望は言い訳のように言った。助手席の修治とてハンターと敵対している以上、彼らを殺すことを責めるつもりはない。
 修治は望の前髪が風になびくのを見つめた。彼女の言い分に納得できなかった。
「……銃を連射してるときのあんたこそ、おかしかったじゃないか」
「なにが」
「なにがって、はっきりとは言えないけど……追いつめられてるみたいだった」
「聞き捨てならないわね」
 笑いながらだが、望がまた肘で突いてきた。さっき食らった一発の恐怖が残っているせいで、修治はその硬さに身構えてしまう。
「あんた、『あたしというもの』にケチをつけるっていうの? あたしの人格がおかしいと、そう言いたいわけ」
「ちがうよ……」
 修治ははっきり言えないもどかしさを感じる。
「そうじゃなくてさ。残虐なやり方ってあんたらしくない気がする」
「まあ。根拠のない思いつきだわ」
 望にぴしゃりと言われて二の句が継げない。修治はかろうじて、
「……だといいけどね」
と負け惜しみを言うにとどまった。

 ふたりの乗ったジープはゲームの指定通りに第二の試合場に乗り込んだ。そこは、さっきの都市とは違い家の跡もまばらな田園の町だった。
 スタート地点からは徒歩で町を抜けることになる。
「なにが来るかな。またリモコンヘリだったりして」
「それはありえないわ、毎ゲーム内容が変わるのがブラック・ランナーズの原則だから。それより、自分の得物はちゃんと扱える?」
 望がビニール袋の中身を指さした。修治が首を振ると、望はため息をついた。
「まあ、いいわ。使うときはあたしが指示するから」
 袋の中身は、油粘土みたいな塊が一キログラム。それから、コードの付いた数本の棒だ。これがプラスチック爆弾というものらしい。
「こんなもの、いったいどう使うんだい?」
 修治の疑問には答えず、望は厳しく注意点を言った。
「問題はね、こっちに爆弾が渡されたということは、敵もそれに類するものを持っている可能性が高いということ」
「……時限爆弾とか?」
「そう。時限爆弾とか。仕掛けてあるかも知れないから、くれぐれもそのへんの物をみだりにさわらないでね」
「それはちょうど、あんなふうにかな」
 修治が指さす先を見て、望は大きく口を開けた。ランナー・タイツ姿の男が、通りのむこうの廃屋で井戸をのぞき込んでいる。男は頭を振ると、井戸の蓋を閉めた。修治が呼びかける。
「おい、あんた!」
 男は修治たちの姿を見つけると、にっこり笑った。道路の真ん中を歩いてこちらへやって来る。
「あ、あの、すいません、あなたたちもしかして、ブラック・ランナーズの参加者ですか?」
 望が叫んだ。
「止まりなさい! 罠が仕掛けてあるかもしれないのよ!」
「え、なんですか? よく分かりませんが」
 やせた頬をひくつかせながら男は言った。修治が両手を掲げて止まれの合図をするのも理解しないようだ。
「私はべつに悪いことはしていないでしょう? 感じの悪い人たちですね」
 男は歩くのをやめない。ふと足下の空き缶を蹴った。
 案の定、爆発音がした。
 修治は激しく押し倒された。両耳が拍動をもって痛む。しかし修治を伏せさせたのは爆風ではなく、望の身体だった。
「いったいどうなって……、おい、望さん!」
 修治に覆い被さった望は額から血を流していた。修治のほうがよほど真っ青な顔で自分を見つめているのを見て、安心させるように微笑む。
「参ったわね、こう危なくちゃ前に進めないじゃない……。そこのお間抜けさん!」
 望は男に叫んだ。
「今度はあたしたちの前を歩きなさい」

 地雷には指向性があったらしい。怪我をしたのは望だけで、見知らぬ男や修治は無事だった。
 修治たちはとにかく男がやってきた家の中へ入った。また地面が爆発するかもしれない、でも新しい場所に入るよりはいいだろう。

 家のなかにはいくらか家財道具が残っている。修治は望の傷を拭き、布を当てて応急処置をした。望によれば傷は浅いらしいが、押さえた布からしみ出てくる血液を見て修治はいやな気分になった。横でじっと見ている男に呼びかける。
「おい、あんた」
「ひいっ、ごめんなさい」
 男が、修治からうなじが見えるほどに頭を下げる。黒縁の眼鏡が落ちるのを、男は慌ててずり上げた。
「私が爆弾をけっ飛ばしたことですよね。ごめんなさい、わざとじゃないんです」
「それはいいから。水を汲んできてくれないか」
「ええ、僕もさっきからそう思ってたんですよ! でもほら、バケツも釣瓶もないから井戸が使えなくって。あなた、持ってません?」
「見て分からないか。どこにもないだろ。そのへんの部屋を、探してみてくれ」
「あ、はい!」
 男は立ち上がったが、中腰のまま振り返った。
「でも部屋の物にもまた爆弾が仕掛けられているかもしれないですよね……。あ、探すのがいやだって言っているわけじゃないです、これだけご迷惑をかけたんですから、なにかお役に立つべきだとは思うんです。でも命の危険にさらされる必要はないんじゃないですか、もっとほかのことでは……」
 修治は頼むのを諦めた。望が元気のない声で呼びかける。
「あんた、名前は?」
「ジュリーといいますが、それがなにか?」
「あたしは望ってい・う・の。よろしく」

 そのとき、ごとり、と物音がした。
「びえええええっ!」
 ジュリーが叫んで家を飛び出した。外だって危ないのに、学習しないやつだ。修治は身構えた。しかし修治は望のように格闘技の心得があるわけでもない。警戒したところで、素手の敵にも負けてしまうかもしれない。
 部屋の隅、あれはかつて飼い猫が通った扉ではないだろうか。そこが開いて……外からのぞき込む者がいる。
 栗色の髪の少女の顔が、横向きに見えた。
「あなたたち、ブラック・ランナーズだね」
「あ、ああ」
「このへんで暴れられると迷惑だからさ。ちょっと出て来てくれない?」
 望が身体を起こして答えた。
「なんでそんなことする必要があるのよ」
「外は爆弾がいっぱい。あなたたちは身動きとれない。怪我もしてるみたいだし、拒否できる立場じゃないと思うんだけど?」

 家を出ると、裏手には荷車が停まっていた。どうすることもできないふたりは少女に招かれるままに荷台に乗った。
「さあ、家に来てもらうね!」
 修治が爆弾のことを訊ねると、心配ないと、こともなげにあしらわれた。

 国土は広く、国民は多い。なかには、国家の管理の行き届かない人々もまれに存在する。とくに廃墟の町の一部には個性を奪われていない者たちが住んでいるらしいと、修治もうわさ話には聞いていた。
 少女の一家が、その法の網を逃れた者たちだという。ずっと物陰からうかがっているから、ハンターが爆弾を仕掛けた位置も知っているらしい。
「エリー、ぼさっとしていないで手伝いなさい」
「はぁい」
 少女エリーと彼女の母親は、望を横たえると傷を消毒した。
「破れたランナータイツはどうするんだい」
「ゴムのりがありませんか。あれでなんとかなります」
 望は黒い生地に開いた小穴の縁に接着剤を塗り、指でつまんで貼り付けた。
「どうして助けてくれるのですか」
 修治が訊ねると、エリーは肩をすくめた。
「だってこの町がゲーム会場に選ばれてからこのかた、ランナーってば毎週のように家の近所に来て死んでいくんだもん。ほうっておくわけにもいかないでしょ」
 部屋着に着替えた望は、修治に出ていくように命じた。修治は彼女の邪魔をしないように自分にあてがわれた部屋へと移った。清潔なベッドに腰掛ける修治に、エリーがもたれかかってささやく。
「ブラック・ランナーってことは、あなた、誰かになりたいの?」
「ああ」
「それっていったい誰?」
 エリーがランナースーツの袖をつまんで引っぱった。修治は取り合わなかった。
「誰かは言えない」
「有名人?」
「そういうんじゃねえよ」
「あー。じゃあ、誰か好きな人なんだ」
 修治が肯定も否定もしなかったのを、エリーは面白がった。
「いままで家に来た人はね。スポーツの一流選手とか小説家とかになりたがってた。馬鹿だよねー、今どきそんなわがままそうな人には誰も仕事させないし、周囲に偽者だってばれてるんだからカリスマ性もゼロなのにね。あとさ、誰になるのか決めてもいないって人もいたよ。自分の命賭けてるのに目的がはっきりしないなんて、これも馬鹿」
「そう」
「ブラック・ランナーズなんて考えなしなこと、やめちゃえば?」
「それは……」
 修治が答えようとすると、エリーは皮肉な笑いを浮かべて部屋を出ていってしまった。修治は自分が座っている部屋を見回した。
(暖かいベッドがある。ブラック・ランナーズのゲーム中なのに)
 修治は枕に顔を埋めた。しばらくの間、まどろむ。
「でも……。暖かいだけじゃ、だめなんだ」

 家の中はともかく、外には人通りもない。家並みはすべて朽ちていて、地面には爆弾が埋まっている。ブラック・ランナーズのゲームはいまだ続行中なのだ。修治がそんなことを考えていると、意外な声が聞こえた。
「いやぁ、修治さん。無事でしたか。この家、なんとも不思議ですね」
 修治が驚いて顔を上げると、ジュリーが戸口から顔を覗かせている。彼もちゃっかりこの家に世話になっていたのだ。
「食事だとのことですよ」
 もう日が暮れていたのだった。一家はテーブルについて夕食をとった。主人が黙って切り分けてくれるパンは、結局のところ廃墟からの盗品を売って手に入れたらしい。エリーが家族に甘えているのを、修治は冷たい眼で眺めていた。
「こんな生活をしていても、いつかは捕まってしまうだろうに」
「そうでもないよ。あたしが生まれたときからやっていけてるもん」
 一家は修治の言葉にもまったく動揺を見せなかった。エリーの兄は、修治が新市街の高校に通っていることを知ると目を輝かせた。
「高校って、どんな感じですか? 僕、行ったことがなくて。たまに雑誌とか拾って見て想像するだけなんです」
「いまの高校なんて、退屈なところだよ」
「そんなことないですよ! ほんものの高校、いいなあ」
 青年はしつこく、運動会って楽しいかとか修学旅行とはどんなものかとか、修治に尋ね続けた。缶詰のツナを頬ばりながらエリーが口をはさむ。
「ねえ、あたしも高校、行きたーい」
「おまえは馬鹿だから、どっちみち行けやしないよ」
「なによ、お兄ちゃんのばかぁ」
 エリーが兄の頭をぽかぽかと叩いた。ほんとうに幸せそうだった。家具屋から奪ってきたのだろうダイニングセットの椅子に座りながら、修治は思った。この青年とて、いまの高校が単に「危険行動をしそうな若者を当局に引き渡す場所」であることを知らないはずがないのに。
 そのとき、まるで寝坊のように眠い目をこすりながら望が起き出してきた。
「よお」
「よおじゃないよ。身体だいじょうぶなのか?」
「たいしたことないわよ。すっかり元気」
 望は修治のとなりに丸椅子を持ってきて座った。
「おいしそうじゃない! あたしも頂こうかしら」
「望さん、でも」
 修治は、いま感じている懸念を望に話そうとした。
「いいからいいから、難しい話はあとでね」
「そうですよ、修治さん。ほら、インスタントのスープがおいしいですよ」
 望とジュリーにそう言われ、修治は引っ込まざるをえなかった。

 食後修治が部屋に戻ると、エリーがまた誘ってきた。
「明日からもずっとこの家にいていいんだよ。あたしたちは大歓迎」
「……」
「ここから先、どうやって進むというの? ハンターにやられて死んでしまうのがおちじゃない」
「爆弾の位置を教えてくれたら、このゲームでは死ななくて済む」
「あたしたちの協力でランナーが勝ったりしたら、さすがに当局だってあたしたちを放って置かないんじゃないかな?」
「……正論だね」
 もしかしたら。彼女たちは、こうやってランナーたちに落後を勧めているからこそ、ゲーム会場の町で好きに暮らして行けているのかもしれない。すべてはブラック・ランナーズを計画した政府の思惑どおりだとしたら。エリーの一家は、ハンターの仲間も同然だ。いや、むしろ……。
「望さんにも話したら、『考えておく』って言ってたよ。ほら、お風呂に入ってきてよ」
 エリーが視界から消えた瞬間、修治は行動に移りたかった。しかし望が呑気に構えているのが気になって、具体的な動きをとれなかった。

 エリーの一家は風呂まで用意してくれたが、都市ガスも電気の配給もないせいで、これだけは庭でドラム缶風呂だった。修治はランナーの黒いタイツをさっぱりと脱いだ。
 修治の身体は奇妙な曲線を描いていた。どちらかというと女性を思わせる、中性的な体型。しかしその陰部に性器はなく、それどころか臍や乳首すらない、のっぺりとした皮膚をしているのだ。
 ブラック・ランナーズのゲームの公正を期すため、ランナーたちの身体からは、顔を除いてすでに個性が抜き取られている。
 ブラック・ランナーは敗北すれば死ぬだけだし、優勝しても手に入れられるのはあくまで他人の個性である。したがってランナーの身体に個性はもう必要ないということか。黒いランナー・タイツは、着用後即座に身体から個性を奪う性能があるのだ。
「もう、俺に戻ることもないんだよな」
 もし修治が女性の個性を手に入れれば、ここには女性器が付くことになる。修治はなにも付いていない股間のしずくを、そっと払った。
「おーい、修治くん」
 背後から呼ばれて、修治はあわてて股間と胸を隠してしまった。望は大笑いする。
「なにそれ、女の子みたい」
「あんたこそ、なに全裸になってんだよ!」
 望もまた、ランナー・タイツを脱いで一糸まとわぬ姿になっていた。
「えー、べつに、こんな身体エッチでもなんともないでしょ」
 望が目の前をくるりと一周して見せた。
「たしかにそうだけどさ……」
 望は風呂桶の湯を汲むと、自分の身体の傷を丁寧に洗い始めた。
「さっきはいい加減な消毒だったわね。これじゃつぎの試合で痛むわ」
「悪かったな……ところでさ、望さん」
「どうぞ。誰も見てない、聞いてない。これはチャンスかなぁ」
 裸の望が抱きついてきたので、修治はまた黙ってしまった。
「どうしたのよ」
「いや、だって……」
「恥ずかしがっているの? ふふふ、この状態でしかできないセックスってのもあるらしいわよ。なんなら試してからにする?」
 望が修治の股間に手を伸ばしてきた。
「やめてくださいっ」
「照れちゃって、かわいいっ」
 このまま望のペースではどうなるか分からない。修治ははっきり言った。
「この家の人たち、怪しいよ」
「なんで?」
「あいつら、政府に追われて盗品で生活しているにしては悩みがなさすぎるんだよ」
 なんとなく理想の、自分自身もそのなかに溶けこみたくなるような家族。修治はそんな家族に見覚えがあった。いまの時代は、それを故意に作ることができる。
「よく気づいたわね」
 修治に抱きついたまま、望は手のなかのスイッチを押した。
 彼らがさっきまでいた家屋が、爆発した。

「あーあ。思ったとおり、あの家にはゲームで使う爆弾が蓄えてあったのね。あたしが仕掛けた量よりもよく燃えるわ」
「望さん!」
「ほら、風邪引くわよ」
 望がバスタオルを二枚投げた。修治は身体に巻き付けて水気を拭った。
「終わったらさっさとランナー・タイツを着て」
 修治はのろのろと黒いタイツをまとった。アメリカ風のツー・バイ・フォーの家を炎が包んでいる。
「みんな殺したのかよ」
「うん。だってあたしなんか爆弾で真っ先に殺されかけたんだもん」
「あんまりだ」
「あんまりよね。たかだか第二ゲームで負けちゃうところだったんだから。あたしってば、自分の甘さにちょっといま落ちこんでる」
 再び黒い生地に包まれた望の身体に、修治はつかみかかった。
「あんた、爆発のとき俺をかばってくれたじゃないか! ランナーになる前のあんたは、、もっと暖かかったはずだ。こんな無差別に人を殺す人間じゃなかったんだろ」
 望は鬱陶しい蜘蛛の巣を払うように腕を振り、修治の脇に肘を打ちつけた。
「ぐっ」
「残虐と呼んで頂いて結構。あたしもあんたも、ブラック・ランナーですから」

 ブラック・ランナーズのゲーム内容は、編集を加えられ逐一テレビで全国に放映されている。望むままの個性を手に入れるために残酷なプレイを繰り広げるランナーの姿が、普通の人々の茶の間に流れるのだ。自分の欲望のために他人を犠牲にするランナーというのは、なんと身勝手で私利私欲に塗れた連中なのだろう。それに比べて私たちは正常だ……。
 ブラック・ランナーズ制度は、国民にそういった意識を植え付けるために行われているゲームなのである。

「だからって、なんでだよ……」
「ああっ、また泣き言? あんたブラック・ランナーズに志願するまえに、どうなるか考えなかったの?」
 家はまだ燃えている、その明かりにふたりの顔が照らされている。首を振る修治に、望は猛り狂った。
「なんでこんな甘ちゃんと等しく扱われないといけないわけ? あたしの仲間はもう何十人も死んでるんだよ!」
「……仲間?」
 修治は望の首筋、タイツに覆われていない部分になにかを見つけた。
「黒百合団(ブラック・リリー)……」
「そうよ」
 望は顎を上げて、その下の百合の入れ墨を誇らしげに見せつけた。
「うそだ……。まさか、あんたみたいなのが黒百合団だったなんて」

 エリーの家から遠く離れた家に、その晩は宿を取った。翌朝ふたりが家を出ると、道ばたにエリーが立っていた。身構えるふたりに、エリーは笑って答えた。
「大丈夫だよ。僕ら、飛び道具は支給されてないから。こうなったらもうあなたたちを留める方法はないよ」
「……じゃあ、おまえがハンターか」
「うん。みんなハンター・ラファエルさ」
 エリーが手を挙げると、木の陰から父親が現れた。顔が火膨れしている。ひどい怪我だ。
「母親と兄貴役のやつは死んじゃった」
 エリーは笑った。
「でも残念だったね。昨日ランナーを辞めるって言っていれば、あなたもラファエルのひとりになれたのに」
 望がつぶやく。
「なるほど。そういう説得だったのね」
「ラファエル役は何人でもオーケーだよ。そのうち、ここに町を造るつもり」
 エリー=ラファエルは手招きした。
「ゴールへ連れてってあげるよ。脅してでも、そうするつもりなんだろ?」

 望はエリーを先導させて地雷のない道を歩いた。エリーは楽しそうに言う。
「お姉ちゃんって黒百合団なんだね。介抱したときに首の入れ墨を見せてもらったよ」
「そう」
「お姉ちゃん、馬鹿だよ。ジーン・Dに利用されているだけなんだって分かってる?」
 望はその質問を無視した。

 黒百合団とは未成年者からなる政治思想団体もしくは宗教団体であり、ブラック・ランナーズ制度唯一の誤算である。
 個性保護法施行後起こった反対運動の指導者に、ジーン・Dという男がいた。彼は数々のテロリズムを繰り返したあげく、逮捕され死刑となった。
 問題は彼に信奉者が多かったことである。第十回ブラック・ランナーズ、その回は通算三人目の数少ない優勝者を出した。優勝者は高らかに宣言する。
「我々の戦いは終わっていない。ジーン・Dは、何度でも甦る」
 優勝した青年が選んで身につけた個性は、ジーン・Dのものだった。
 ジーン・Dの個性はこれまで三回復活し、三回死刑となった。自らを犠牲にして彼を復活させることを目的とする組織的集団は、首筋に百合の入れ墨をしていたことから黒百合団として知られることとなった。
「望さん……。あなたも、ジーン・Dになりたいんだ」
「そうよ! 個性保護法の打倒は彼にしかできないもの」
 それをエリーは笑った。
「いまや彼は個性保護法があるからこそ存在するんだよ? 僕たちハンターといっしょじゃないか」
「いっしょにしないで」
「いっしょだよ」
「そうかもね、望さん」
 いままで黙っていた修治がそう言った。望が信じられないといった顔でにらむ。
「あんた、裏切る気?」
「あんたの味方はしたけど、俺は黒百合団に味方した気はない」
 ふたりは立ち止まった。エリーが皮肉を言う。
「あはは! 修治さん。あなたも、自分一人じゃなにもできないくせに偉そうだね」
 エリーはあくまでかわいい少女のように、指を組んだ両手を伸ばしながら言った。
「修治さんって困ったときはいつも、ほかの人の言いなりなのにね。個性を捨てた人間よりなお悪いや」
「そんなわけねえだろ!」
「修治くん、落ち着きなさい、こちらを動揺させる手口だって分かるでしょう!」
 望はそう言ったが、彼女の声も冷静にはほど遠かった。
 突然、エリーが走り出した。
「似たもの同士、いいコンビがどこまでいけるのやら!」
 行く手にはもうゴールが見える。
「僕は……僕自身はね、幸せな家族が欲しかっただけなんだ」
 修治がエリーを捕まえようとした。エリーはその瞬間反転して、修治に飛びつく。
 鈎のように曲げたエリーの指が修治のスーツに届く前に、望が回し蹴りを叩き込む。エリーの子供の身体は跳ね飛ばされ、ゴールまであと二百メートルの安全地帯、その境界を越えた。

 エリーの身体そのものが、爆発した。

 ゴール前の広い空間。そこには小さな麦畑が広がっていた。
「エリーは最初から自爆を狙ってたんだ」
「まあ、そんなところだと思ったわ」
 修治はしばらく沈黙した。望から離れ、両手を握りしめる。
「少なくとも、第三ゲームまでは協力するって約束だったな」
「ええ」
「第四ゲームは、あんたに協力できないかもしれない」
「もちろん、そうすればいいわ」

 ゴールへ向かうときに、修治は中年の男の死体が麦に埋もれている横を通り過ぎた。少女になって暖かな家庭に包まれたかったのは、彼だったのだ。

 

 

 ふたりはそれきり口を利かずに、第三ゲームの説明を聞いた。百三十階建ての超高層ビルディング。そこが、つぎの殺しあいゲームの舞台だった。
 ゴールは最上階。一階から百二十九階まで、追ってくるハンターの攻撃を避けつつ徒歩で登れば勝利だ。
 ビルディングの内部は廃墟というより、つい先月まで使われていたかのような新しい見た目をしていた。空調・照明も生きている。人格に問題のある資産家が公共の利益を考えずに建築したせいで、政府に没収されたのだろうか。
「待ってくださいよ!」
 急に背後から声がかかって修治はたたらを踏んだ。ジュリーがにこにこして立っていたのだ。
「……生きてたのか」
「いやぁ、おふたりがラファエルをやっつけてくださったおかげで、私も無事ゴールすることができましたよ。さすが百戦錬磨って感じですね! ほんとうに、非常に感謝しております。これからもがんばってくださいね!」
 ジュリーは修治の手を取った。つぎに望にもさしのべたが、彼女は無視した。
「それじゃ、あんたもいっしょに行きたいの?」
「喜んで!」
「しかたがないわね」
 望が先頭に、つぎにジュリーが続いた。ふたりはなにやら話しながら、目の前のエスカレーターへ向かう。
「おい、いきなり中央突破する気か!」
 修治は他の道を行ってやろうかと思ったが、二階への上りはそこぐらいしか見えない。しかたなくふたりの後に続いた。

 二階は電器店で、ハンターがいた。見通しの良い店内で機械音がしたからすぐに分かった。サングラスにマスクの男がチェーンソーを回している。
「……なにあれ。わかりやすい敵」
 二階から三階へのエスカレーターは折り返してすぐ隣りだ。しかし望は意に介さず、まっすぐにハンターめがけて歩き出した。
 こっちには配給されたナイフくらいしかないのにどうするつもりかと思ったら、望は近くにあった液晶モニターの取っ手をつかむとそいつに向かって投げた。
 ハンターはモニターを腹に受けたが平気なようだった。手足か頭に当てれば動きを鈍らせられただろうが、ランナーの平均的な腕力では重いものをすばやく投げて狙い打ちするのは困難だろう。修治が助けに入ろうとすると、望は
「その場にいて!」
と叫んだ。
 陳列棚を避けながらハンターが走る。望は長管の蛍光灯をつぎつぎと投げた。蛍光灯はボール紙に包まれていたから、割れもせず跳ね飛ばされる。望がかすかに震えているのが見えた。
「だいじょうぶなのかよ」
 仕掛けをするといっても、第一ゲームのように電源コードを張り巡らせる暇もない。ハンターは余裕を持って望に近づく。修治はただ様子を見ている自分に気づいて、毒づいた。
「ちっくしょお!」
 修治は走り出した。そのとたん、望がきびすを返してこっちへ逃げて来る。修治はそのまま望と入れ違い、彼女を背中にかばおうとした。ハンターも走り出している。間に合わない。
 いきなり天地がひっくり返った。わけも分からぬままに修治は宙を掻く。見ると、驚いたことにハンターも転倒している。望が撒いておいた製品パンフレットのつるつるした表面に足を取られたのだ。
「さっさと立って!」
 望がつま先で修治のわき腹を蹴った。修治はあわてて手足をつき立ち上がる。しかし戦い慣れたハンターのほうが早い。
 ハンターが気合いを入れて、修治の背中を切った。
 しかし重いチェーンソーを振り下ろしたせいで、ハンターはまた転んでしまったようだ。修治は望の後を追った。このとき修治の頭のなかにハンターの姿はいなかった。
 ただ、望のほうが怖かった。

 望はパンフレットの紙の上を走っていく。修治は考えるまもなくあとに続いた。ハンターは、また転んで自分の腕をチェーンソーで傷つけてはかなわないのだろう、慎重に追いかけてくる。間隔が開いたところで、ふたりを待っているジュリーのところまで来た。
「やって!」
 なぜか手に缶をいくつも持っていたジュリーはそれを全部放り出し、折り畳んだ紙を広げるとライターで慎重に火をつけた。
 早くしろよと叫ぶ前に、ようやくジュリーが火を修治の背後へ放った。うっすらと青、それから黄色い炎が床を満たす。透明な火……アルコールだ!
 修治は思い返した。そういえば、後半に踏んだ紙は湿っていて少しも滑らなかった。ジュリーの持っていたOAクリーナー(汚れ拭き)がしみこんでいたのだ。あれに引火させたのか。
「なんで教えてくれなかったんだよ」
 修治はハンターが燃えているか確かめようとした。
「あんな火じゃ足止めにしかならないわよ! 振り向かないで!」
 望とジュリーが走り出している。修治は背中の痛みを思い出し、後を追った。

 望はエスカレーターを無視し、広いフロアの隅、レジカウンターを飛び越えて従業員出入り口を抜けた。非常用階段に入っても足取りは乱れない。ジュリーもしっかりついていっているのが驚きだ。修治は息が上がり、さっき転んだときに打った腰までが痛みだした。さんざん走り、十二階で階段からフロアへ戻った。鞄や靴、宝石店の暖色の照明が、喘ぐ修治の目ににじんで見える。
「怠けた肺が苦しいんでしょ。最近の子は運動不足ね」
「べつに。ランナーなんだから身体の構造は全員いっしょだろ」
 望が話しかけてきたので答えたら、いきなり頭を床に押さえつけられた。
「あんた、自分のやったことが分かっている?」
 やはり階下での失敗を怒っているのだ。修治は反論した。
「望さんを助けようとしたんじゃないか」
「助けられる実力もないくせに」
「んだと、おらっ」
 修治はもがいたが、望の肘が彼の背中の真ん中に乗っていて振りほどけない。
「チェーンソー持った相手に独りで突っ込んでいったら普通危ないって思うだろうが!」
「あんたの判断なんか聞いていないの。バカにもできる役目だけ与えてんだから、素人は言うこと聞いてなさい」
 そこへ突然ジュリーが割り込んできた。
「僕がさっさと火をつけなかったから悪いんですよね、そうなんでしょう」
「べつに、ジュリーくんは悪くないわよ」
 ジュリーの手は、さっき握りしめていたパンフレットのインクでべたべたしていた。望はしぶしぶ修治から手をどける。
「前のゲームではあんなに仲が良かったのに、僕が入ってきたからいらいらされてるんでしょう? きっとあの爆弾のことを根に持ってるんですね。望さんって過去の失敗にわりとうるさいほうみたいだから」
 ジュリーは一方的にしゃべり続けた。いったい喧嘩をなだめているのか火に油を注いでいるのか分からない。修治は馬鹿らしくなって、ただ皮肉を言うにとどめた。
「それじゃ、このあとはどうするんです、司令官殿?」
「ここでハンターを待ち伏せするわ」

 望たちは急いでハンターを迎え撃つ準備をした。望は目につくものだけを組み合わせ、仕掛けの指示を出していく。
「そろそろ上がってくるはずよ」
 三人は作業を止め、待ち伏せ場所に選んだ店に入った。
 ここも第一ゲームの廃墟とは違い、まともな商品が整然と並んでいる。ただどの表面にもうっすらと埃(ほこり)が積もっているから、決してこの世界が正常ではないとは分かる。
 望がひとつの展示物をじっと眺めていた。彼女がショーケースの蓋に指をかけると、継ぎ目のゴムが傷んでしまっていたのかガラスはべりべりという音を立てて外れた。
「なんだよ、盗みか?」
「赤いベネチアングラスって、あの人が好きだったの」
 赤い縞模様の入った花瓶が、望の黒い両手に収まった。
「あの人って、まさかジーン・D?」
「そうよ」
「知り合いだったんだ……。宗教みたく、ただ死後に『ジーン様ぁ』って崇めてたのかとおもった」
「ばかいわないでよ」
 望は接客用の椅子に座り込んで、花瓶の縁をなぞった。透明な部分を透かして彼女の沈んだ顔が見えた。
「黒百合団ってほら、どうしても個性を奪われたくない未成年者が参加するだけじゃない。資金源がなくて貧乏だから、やることがなにもかも薄汚れてくるのよね。だから彼、これそっくりの花瓶を一個だけ秘蔵しててさ。飯ごうのごはんを食べた後にときどき眺めてストレスを発散させてた」
「へんなやつ」
「そうよねー。英雄なんだから女遊びでもすればいいのに、花瓶一個で済ますんだもん。でね、『これのことは誰にも秘密だぞ』と言って、結局団員全員に宝物を見せて回ったんだから。そういう子供っぽいところが微笑ましかった」
 惚れた男のやることは、そんな行為でもよく見えるのだろうか。望は思い出に浸っていた。
 でもいまの世界からは、そんな思い出に残る性癖すら絶滅したのだ――個性保護法の罪は、そういうところにあるのかもしれない。

 いきなり陳列棚が倒れてきた。望は避けたが、花瓶は手から滑り落ち、ほかの何十ものガラス細工とともに床で砕け散った。
「ハンターかっ!」
「うわっ、僕です、僕ですよ攻撃しないでください」
 倒れた棚の向こうで、ジュリーが両手を振って叫んだ。
「棚にもたれかかって商品を見てたんですよ」
 望が頭を振った。
「気をつけなさい、まったく……」
「もちろん気をつけますよ、あなたにはかなわないでしょうけど!」
 なにをするかと思ったら、ジュリーは破片だらけの床に手をついた。
「ごめんなさい! さっきの赤いグラスは望さんのお気に入りだったんでしょう? いま集めますから」
「べつに拾わなくていいわよ。そんな格好してると、ガラスで手を切るよ」
「私の手なんかあなたには関係ないでしょうが。ああっ、ゲーム中に店の品物なんか触っているから、こんなことになるんです」
 ジュリーは両手にいっぱいの赤い破片を集めて、望に突き出した。
「はい、ここに置いておきますからね! ……なんで無視するんですか!」
 思い出話が台無しだ。望は廊下の先を見つめた。
「来たわ」

 覆面にチェーンソーのハンターが階段室の鉄扉を開いた。すばやく武器の先を振って待ち伏せに備える。
 やはりハンターはこの階に望みたちがいることを知っているのだ。慎重な足取りで、ときおり左右の店を伺う。背後に物を隠しておけそうなカーテン類は、容赦なく切り裂いた。
生活用品店の棚が倒れた。欧州製のやかんに浄水器が、ハンターには当たらず、そいつの背後に転がる。
 ハンターが覆面の下で笑った。そしてやかましい金属音とは違う音が同時に鳴ったことに気づくのが遅れた。
「……水?」
 前方の床に垂れた水。気づいたハンターは走り出したが、間に合わなかった。修治とジュリーが抱えた放水ホースが撒水の直撃を食らわせたのだ。
 フロアに備え付けられた消火栓からの放水は強烈だった。チェーンソーを取り落としハンターがもがく。ダメージは大きいようだ。
「よし! 放水、止め」
 望が叫んだ。
「さすがですよ望さん。火攻めのつぎは水攻めですね!」
 ジュリーが喝采する。
「今回はうまくいきましたね。さすがに修治くんもミスしないで済みましたし」
「おまえはなんでいちいちそういうことを言うんだよ!」
 修治がジュリーに飛びかかった。
「なんですか、また逆ギレですか。うまくいかないからって僕に当たるのは止めなさい」
「そうじゃねえだろ!」
 ふたりがもみ合う。望はため息をつくと、ひとりナイフを抜いてハンターのほうへ向かった。
「ちょっと待てよ、おい。望さん、なにする気だ」
「なにって、とどめ刺しとかないと」
 それを聞いたハンターが床に転がったまま、逃げようとしてうめいた。修治は望に詰め寄ろうとするが、ジュリーに腕を引っぱられる。ジュリーが憎々しげににらみつけた。
「僕を嫌いなのはいいけど、望さんに迷惑をかけるのは止めてくれませんか」

 また、これだ。
 望は黒百合団だ。ブラック・ランナーズを勝ち残るための対策知識も豊富で、専用の訓練も受けているらしい。彼女のエゴに逆らい修治自身の意見を通すことは非常に困難なことだ。
 しかし死体を何回も撃ち続けたり、子供を蹴り殺したりする行為を修治は許すわけにはいかないのだ。それが黒百合団の流儀なら、黒百合団を許すわけにもいかない。

「だけどよ……」
「修治、修治、修治くん。自分勝手な人はこれだから困る。いま生きていられるのはどこのどなたのおかげかちゃんと分かってるんですかね」
 修治は自分勝手じゃないとは答えられなかった。それではまるで望の言うとおりに行動するのが前提みたいではないか。ラファエルの言葉が思い出される。
「……望さんは、こんなジュリーみたいな奴のほうが好きなのか?」
 望は困惑したのか、目を逸らした。
「好きとか嫌いとか、そういう問題じゃないでしょう」
 三人とも黙ってしまった。しかし無為に時間を使っているわけにはいかない。望はなだめるように言った。
「修治くんは、なんでこのゲームに勝ちたいわけ? それがはっきりしていれば、お互いの目的はなにか、勝つためにどうしたらいいか分かり合えると思うんだけど」
 修治が小声で答えた。聞き返されると、今度は大声で叫んだ。
「俺は……俺の姉さんになりたいんだよ!」
 意外な言葉に、あとのふたりはまじまじと修治の顔を見つめる。ジュリーが腹の立つことを言う前に修治は背を向けた。
「……もう言うことはない。じゃあな」
「あんた、また勝手な行動をする気?」
「おまえらの都合なんか知るか! ふたりでしこしこやってろ!」
 修治は走った。ハンターがいま出てきたばかりの階段室に入り、そのまま上っていった。

 望はしばらく考えた。すぐにでも後を追いかけたほうがいいだろうか。追いついても、いまの修治はこころを許さないだろう。いまは彼をそっとしておいたほうがいいのではないか……。
 いや、修治の都合を考えて最善の作戦を採らないなんて馬鹿らしい。望は頭を振った。
「行きましょう」
 望はハンターをまたいでふたたび階段室に入った。修治はどのくらい上っただろうか。彼がちゃんとへばらずに走っていれば、つぎに会うのは五十階くらいかもしれない。望は十二階をあとにした。ハンターには、とどめを刺さなかった。

 望とジュリーは階段を登った。途中小休止を挟みながら、階段以外は無視して進む。
 百二十九階。修治は、どこにもいなかった。
「そんな、どうして」
 階段は行き止まりで、出口はひとつしかない。望は光の射し込む扉を開く。高層の風に、汗が一気に冷えた。
 海が見える。
 百三十階はなく、ビルはもう屋上だった。隣りにはこちらとそっくりなビルが見える。ツインタワーだったのだ。
 彼女の目の前に、ふたつのビルを結ぶ吹きさらしの鉄橋が見えた。橋というよりも巨大な鉄筋の足場に似ているだろうか。ゴールである百三十階はふたつのビルにまたがり、橋脚の上に乗っているのだ。
 斜めに走るH型鋼の支柱(ビーム)の隙間から、陽光が望の顔を照らした。彼女は震えながら、それでも用心深く目を走らせる。チタン白に塗られたらせん階段が橋の中央にあった。あれがゴールへの順路なのだろう。
 その入り口には目印のように、小旗が風に揺れている。黒いぼろ布の旗。望が口に手を当てた。声を押し殺そうとするができない。無理に飲み込むとその場にひざまずいた。
「まさか……、修治、くん」
 旗の下には、人間の腕が落ちていた。

 望の意識は一気に過去に戻っていた。黒百合団のアジトに大規模な取り締まりが入ったあの日のことだ。
 建設中のビルディングにあった隠れ家を機動隊が急襲した。ジーン・Dは不在、判断は望に任されていた。しかし高校生だった望は、ビルを囲まれたとき「もはや逃げ道を失った」という判断ができなかった。
 彼女は仲間とともに上へと逃げた。
 まさに袋のネズミとなった望たちを、追っ手はじわじわといたぶった。最上階、現場作業員用の足場も渡りきり、逃げ場を失った望たちは暗闇のなか鉄筋の上を歩いた。
 鉄筋の向こう側に行ったところで逃げ道があるわけもない。なのに彼女らは死への逃避を続けた。なかまは次々と足を滑らして百メートル下の道路に叩きつけられる。きっと当局のやつらは、その光景を下から眺めて
「死体を片づける迷惑を考えないとは、なんと身勝手なテロリストだ」
と思っていただろう。
 望自身は落下してすぐに階下の金網に引っかかったため、敵にも見つからず命を長らえることができた。

 ジーンがいれば仲間は無惨な死にかたをせずにすんだだろう。望だから失敗したのだ。「望」ではなく「ジーン」ならば……。
 ジーンが死んだとき、そしてだれかがジーンになる方法があると知ったとき、望はジーンになろうと決めた。

「望さん、どうしたんですか?」
 ジュリーの声が遠くで聞こえる。
「仲間が『また』死んだのがショックですか?」
 望の手足は痺れてしまっていた。自信たっぷりだった望の姿はもうない。いや、はじめから自信などなかったのだ。
「うそよ、これはゲームなんだ、ほんとうの戦いじゃないんだもの、あたしでもできるはずよ……」
 ジュリーがとどめを刺した。
「でも、修治くんは死にましたよ」
「ああああああたしじゃだめなの……だめなのよ」

 背後から誰かが上がってくる。ハンターが、やってくる。
「いや……」
 鉄橋に手すりはない。その縁まであとじさる望。ジュリーが横目で見つめる。
「ハンターが来ちゃったじゃありませんか、どうするんです望さん」
「あ、あたし、分かんないよぉ」
「無責任ですね! せっかくあなたを信じてついてきたのに、見殺しにするわいまさら放っぽりだすわ、あなたはどう責任をとるつもりなんですか!」
「やめてよぉ、助けて、ジーン!」
 あの日のように望が端から足を踏み出そうとした、そのとき、

 修治が現れて背後からハンターを蹴った。ハンターは望を捕まえようとするが間に合わない。ハンターの身体が、チェーンソーとともにゆっくりと地上へ落ちていく。
「望さん!」
 修治は望を抱き留めた。

 修治の胸には筋肉もなく、細い手足は少年のようだ。でも望は一時、彼の腕のなかで安らいだ。
「修治くん……、生きてたんだ」
「疲れたから途中で階段を逸れて部屋に隠れてたんです。俺……いま人を殺しちゃいました」
 望は修治を見つめた。やらせてはいけないことを、やらせたのだと気づいた。
「ごめん、修治くん」
「謝らないでくださいよ。まだ終わってないんだから」
 修治は顔を上げ、ぼうっと見物しているジュリーをにらんだ。
「聞こえてたぞ。おまえ、望さんになに言ってたんだ。俺が死んだだと?」
 ジュリーは急に慌てだした。
「え、べつにいつもの会話ですけど」
「そうよ、ジュリー、あんたどうしてあたしの過去を知ってたの」
 ビルディングを上らせ、建設現場風の場所に連れて行って望の動揺を誘う。それがブラック・ランナーズ当局の意図ならば、望の過去は調査済みということだ。ジュリーもそれを知っていたのだとしたら。
 ジュリーは眼鏡の下の目を見開き、口から泡を飛ばしながら言った。
「あ、ご、ごめんなさい、僕、なにか気に障ることを言ったのなら謝ります」
「そういう問題じゃないだろうが! おまえ、ハンター側の人間なんだろ?」
「いやだから、怒ってるんだったら謝りますよ!」
 ジュリーが上りのらせん階段目指して橋の上を走り出した。あとを追うふたり。金属の足場にランナーズ・スーツ用のサンダルが当たってカッカッカッと音を立てる。階段までの中間地点で、いきなり立ち止まった。
「なんで追いかけるんですか! 無礼な人たちですね」
 ジュリーがなにを言っているのか、よく分からなかった。
「僕はなにもしていないでしょう」
「信じられるか!」
「あなたがそうおっしゃるのならそうでしょうよ! でもむしろ、やったのはウリエルなんです」
 ウリエル。その名前を聞いて望の足が一瞬止まった。落ちていく覆面のハンターの姿を想起してしまい、めまいを起こす。
 それが付け目だった。ジュリーが傍らの支柱に隠してあった仕掛けのボタンを押す。望の乗っていた橋板の鉄網が反転した。
「望さん!」
 修治が飛びついた。落ちる望の身体に手を伸ばし、彼女の脇の下に腕を回すことができた。空中にぶら下がった望の足が宙をかく。
「いやぁ、いやいやいやっ!」
「だいじょうぶだよ、だいじょうぶだから、望さん!」
「大丈夫じゃありませんね、落ちて死にますね」
 修治は怒りの目でジュリーを見上げた。ジュリーが手をやっている鉄柱に、もうひとつボタンがある。それを押したときどうなるか、修治は想像したくなかった。
「卑怯だぞ、ジュリー!」
「ジュリー……。ああ、僕のことでしたね。ええ、たしかに。おっしゃるとおり、ジュリー君は卑怯かもしれませんね。僕からも謝ります」
 ジュリーは殊勝に頭を下げて見せた。

 

 

 国営放送テレビ局。人気番組「ブラック・ランナーズ」の生放送が放映中である。
 スタジオのビデオから、前二ゲームの記録映像が放映される。
 銃の乱射を受ける、ミカエル。
 ランナーに腹を蹴られ、息絶えるラファエル。
 スタジオの視聴者から悲しみのため息が漏れる。
「今回のランナーは、恐るべき凶悪人物のようですね」
「ええ。テロ組織黒百合団もとリーダーと、高校生でありながらそのシンパである少年の組み合わせです。彼らを同時にゲームに出場させた当局の姿勢は、問題視されるべきではありませんか」
 「ブラック・ランナーズ」の売りは、実際の事件報道のように脚色されたスタジオの緊迫感である。犯罪が減少した現代、刺激を求める「普通の」民衆の期待に応えるには、こういった番組が適している。
「放送局! 放送局! ただいま続報が入りました!」
「第三ゲーム会場の村上記者、どうぞ」
「第三ハンター、ウリエルが敗退したようです!」
 スタジオが動揺に包まれる。
「ウリエル敗退? ランナーの敗退の間違いではないですか?」
「いえ、ハンター・ウリエルの死亡が確認されました」
 解説席の犯罪評論家が、机を叩いて抗議する。
「これはいけませんよ。第十回、十九回、二十八回に続き、またもや黒百合団に勝利を許すつもりですか」
「しかしブラック・ランナーズ制度は憲法に認められた国民の権利であり……」
「テロリストを利するだけではありませんか!」
 興奮していても、解説者が台詞をとちることはない。全て台本通りに番組は進行していく。
「こちらが第三ゲーム戦闘の映像です」
 ビルディングでの画像が映った。消火栓の水流に押し倒されるウリエル。続いて、ランナーを追いつめたもののもう一人のだまし討ちによって屋上から突き落とされる。悲しみを誘うBGMが流れる。ジュリーの姿は巧妙に隠されている。目を伏せて泣き出す視聴者の少女。
 解説者が怒りの声を挙げようとしたそのとき、
「うろたえるな!」
 スタジオに大声が響いた。まるで乱入してきたかのようにスタジオ裏から現れるひとりの偉丈夫。
「ガブリエルさん、いけません、待機室にいてください」
「この非常時に、じっとしてなどおれるか!」
 藍染めの作務衣を筋肉で押し上げた男がスタジオ中央に立つ。マイクなしで叫んだ。
「ランナーの横暴、なにするものぞ!」
 静まり返るスタジオ。
「個性の名の下にエゴと身勝手が横行するあの時代に戻っていいのか! 否! 人が人としての道徳を失い、謙譲の精神を損なっていいのか! 否!」
 男は宣言した。
「我こそはガブリエル。いまこそうって出る!」
 視聴者から自然に沸き起こる呼び声。
「ガブリエル! ガブリエル! ガブリエル!……」
 ガブリエルが鍛え上げられた右腕を挙げた。
「よし。儂はこれよりガブリエルの衣を身にまとう。最も強靱で、最もか弱き個性を用意しろ」

 

 

 携帯テレビで放映を見ながらジュリーは手を叩いて喜んだ。
「ほらほら、聞きました? ガブリエルが来るんだって。実際は来ませんのにね……。だって、君たちはここで死ぬんですから」
「まだ死ぬと決まった訳じゃないだろうが」
 修治は望を引き上げようとするが、望の身体が震えていてうまくいかない。
「頼む望さん、落ち着いてくれ!」
「君たちは僕のこと馬鹿にするけど、君たちのほうがもっと馬鹿だって分かってます? 第四ゲームまで勝ち残ったランナーなんかほんとうはいないんですよ。ウリエルは優秀なんです」
「……どういうことだ。黒百合団が過去三回優勝しているはずだろ?」
 ウリエルは肩をすくめた。
「ブラック・ランナーズの出場者はね、ラファエルの説得に応じた人を除けば全員抹殺されてます」
「それじゃ、いままで勝ち残ったランナーは」
「優勝者がゼロだと応募者がいなくなりますからね、そのために作ったダミーですよ」
 やわらかな胸を通して感じていた望の震えが、止まった。
「じゃあ、いままで復活したジーンがすぐに再逮捕されてしまったのも……演技だったの」
「自首するように洗脳した者を使いました。だって馬鹿げてるじゃありませんか、優勝者の人格は結局抹消されちゃうんだから。偽者とすり替えたって、もとが誰かなんて分かるはずがないでしょう?」
 つまり、黒百合団のいままでの勝利はすべて当局の演出だったのだ。テロリストの脅威をあおり反対勢力を牽制するために、黒百合団は利用されていたのだった。
「そう」
 修治の腕が限界に達する前に、望は自分から修治の身体をよじ登って足場に立った。望の表情に、修治が感じたあの恐ろしさが戻ってきていた。
「許せない――もうあたしの問題じゃない。あたしが死んでもあんたを殺す」
 ジュリーがふたつめのボタンを押した。ふたりの背後の足場が崩れ落ちる。これで狭い足場の上から身動きがとれなくなってしまった。
「ほらほら。ちゃんと僕の話を聞いてもっと悔しがってくれなきゃ、納得できないじゃありませんか」
「ジュリー……。どこまで卑劣なまねをしたら気が済むんだ」
 ジュリーはそれを聞いていきり立った。
「だから言ってるでしょう、ジュリーは卑劣なんです! さっきから謝ってるじゃないですか。他人に謝れって言っときながら、ちゃんと聞いてるのかなこの人たちは……」
 修治はひどい吐き気を覚えた。こいつは、腐っている。その様子を見てジュリーはすぐに喜んだ。
「そうそう、その顔ですよ。今回は眼鏡をかけた理知的な個性を選んだんだけど、どうも気に入ってもらえなかったみたいですね。じゃ、試合後にはこの個性は捨てちゃいましょう。もっとたくましくて立派な人格者の個性に替えますよ。そのときこそ僕は生まれ変われるんです、ハンター・ウリエルにね」
 ジュリー=ウリエルは胸を張って見せた。きっとウリエルはおなじことを言っては、何度も個性を替えてきたのだろう。自らを失った男が見せる醜態は、いったいだれのものなのだろうか? 修治はこのジュリーこそがウリエルの本体だと思うことにした。そうでなければやりきれなかった。
 足場は崩れたが、数本の橋桁が修治たちとウリエルとのあいだをつないでいた。なにを思ったか望がその幅十センチほどの上を歩き出す。
「望さん?」
「やけを起こしたんですね。落ちてもしりませんよ」
 望は無言のまま、まっすぐに進む。風で身体が揺れたが足は止まらない。ウリエルがまごまごするあいだに、望は渡りきってしまった。
「つぎの仕掛けを作動させてみなさいよ、そのまえに殺してあげるから」
「う、うわあああっ。こいつ、頭がおかしいんだっ」
 ウリエルは背を向けて逃げた。
 自分も行かねばならない。修治は覚悟を決め、鉄筋に手足をからめて進むことにした。背中の傷の痛みは忘れることにする。
 目をつぶって進んだので、思ったより時間はかからない。慎重に向こう側の足場に身体を持ち上げると、修治は全力で望を追いかけた。

 らせん階段のところでウリエルが旗の棒を振り回している。さっきの腕の切れ端はマネキンのものだったようだ。望はそれをけ飛ばした。ウリエルの注意が逸れたのに合わせて一気に詰め寄ろうとする。
「無駄だよぉ!」
 ウリエルが隠し持っていた銃を撃った。かろうじて外れる。
「ごめんなさい、望さん。でもしかたがなかったんですよ、あなたがそんな怖い顔で迫ってくるから。根が臆病なもので」
 他人の精神にダメージを与えることに関してはウリエルは天才的だ。その才能を認めて積極的に生かせれば、もっとましな奴になれたのかもしれない。
 しかしこういうシチュエーションではだめだ。修治も望も止まらなかった。
「ちゃんと生まれ変わるから構わないでしょう、ね、僕を殺さなくてもいいでしょおお!」
 ウリエルがあとじさり、彼の右足がらせん階段の上に乗った。

 ぐじゃりという音がして、ウリエルが悲鳴を上げた。銃を持った右手首が背後の誰かに握りつぶされている?
「ランナーに追われるとは。まったく、情けないぞウリエル」
 手首のつぎに肘、そして肩が壊された。最後に鈍い音がしたのは首の骨だろうか。

 ウリエルは息絶えた。その死体を作り、いままた抱いているのは高校生の少女だ。彼女はウリエルの瞳を閉じると、死体を投げ捨てた。
「ハンターはなんにでもなれる。ただしゲーム会場内でだけだ。ハンターは、ゴールをくぐることはできないのだよ」
 少女の姿を見た修治がうめいた。
「な、なんで……姉さん?」

 

 

 不思議な光景だった。上空に昇る白い階段。そのたもとに立つ、白いドレスを来た少女。腰まである黒髪が風になびいていた。まるで天国から来たみたいだと望は思う。少女が声を放った。
「我が名はガブリエル。第四ゲ−ムを支配する者」
 少女趣味な格好に大袈裟な台詞はかえって似合うものだ。しかしウリエルの死体を見たあとでは感心する気にもなれない。望が聞き返す。
「な、なによ。まだ第三ゲームは終わってないじゃないの」
「第三ゲームは君たちの勝利だ。そして、第四ゲームの始まりを告げよう。スタートはいまここ。ゴールは第二のビルの、一階玄関だ」
 ガブリエルが白鳥のように両腕を広げた。その手はウリエルが吐いた血で真っ赤だ。
「武器は使用しない。素手で来たまえ、ランナーの諸君」
「逃げて!」
 望が修治を引っぱった。しかし修治は動かない。
「なによ……。今度はあんたがおかしくなっちゃったの」
「あれは姉さんだ、姉さんなんだ!」
「姉さんって……さっき、あんたがなりたいって言ってた?」
 質問しながらも、望の頭は急回転していた。
 どうする? 迎え撃つ?
「遅いぞ、ふたりとも!」
 望の左腕にガブリエルの手刀が当たった。それだけで折れそうに痛む。
「……逃げる!」
 望はたまらずに駆け出した。条件反射で修治も走るが、瞳の焦点が合っていない。
「あれは姉さんだ、ほんものの姉さんが帰ってきたああはは」
「馬鹿! 落ちるわよ!」
 望が肘で突いた。立ち止まった修治をそのまま負ぶい、隙間の多い橋板を走り抜けた。ガブリエルが苦笑する。
「無駄な動きだ」
 彼女は助走をつけると空間を跳び越えた。
「何メートル飛んでるのよ!」
 しかもスカートが乱れる様子もない。まるで亡霊――いや、悪魔だ。
「待て。逃げるだけでは戦いにならんぞ」
「うるさい!」
 さっき打たれた左腕が腫れて力が入らない。修治の左足を取り落とし、ぶらぶらさせながら橋を越える。
 ガブリエルが空中で追いついてきた。
「あ、あ」
 修治が振り返り、赤ん坊のように左手を伸ばした。望のバランスを崩してしまうかに思われたが、その仕草がかえって幸いしたのだ。ガブリエルは一瞬びくりとしたかと思うと、着地を失敗した。手すりのない縁を越えて、ガブリエルが落ちる。
「やったか!」
 渡りきった望が下を覗いた。落ちていない、斜めに張られたケーブルの一本に片手でつかまっている。
(助けないと、死んじゃう……?)
 望は迷った。
(いまさらハンターを助けてどうするというの。でも、誰かがまたあんな死にかたをするなんて、あたしは)
 しかしそれは誤りだった。望が眼を閉じた瞬間、ガブリエルは蜘蛛と化した。ものすごい速さでケーブルをよじ登ってくる!
「修治、いいかげん目を覚ましなさい!」
「ううん、姉さん……」
 修治が足をついた。
「痛いぞ」
 ガブリエルは端の真裏だ! 下から橋板が跳ね上がる。いや、拳が鉄網を貫いているのだ。
「このやろう!」
 望がガブリエルの手を蹴ろうとした。だめだ、その手は硬く、鷲の爪となり望の靴を引き裂く。運動能力が違いすぎる。やはり人間ではないのだ。
 望はまた修治を背負い、全力で走り出した。
「早く! 早く!」
 ビルの屋上にたどりつき、下への階段室に入り、後ろ手に屋上の扉を閉めた。
 ガブリエルが扉を蹴破った。蝶番が飛ぶ。修治のわきをかすめてガブリエルの左手が壁にめり込み望が外れた戸板を投げつけることに成功するが修治に当たらないように手加減せざるをえずあまっさえガブリエルの右手に羽毛のように受け止められる。
「姉さん!」
 修治が、ガブリエルを抱きしめた。ガブリエルはコンクリートから爪を抜いて、優しく彼を、抱き返した。

「な、なによ」
 望はガブリエルの笑顔を、気味の悪いものでも見るようににらんだ。
「偶然にもこのランナーが弟であり、再会できたことを幸せに思う」
「十分強いくせに、肉親使うなんてあんたも卑怯者ね!」
「違うな」
 ガブリエルは否定した。
「汝らランナーが平凡な身体を与えられているのに対して、ハンターがただ強い個性を身にまとうのではあまりに不公平というもの。儂は、当局に回収されたうちでもっとも軟弱で戦に耐えない『個性』を選んだ。それが偶然この少女だったというわけだ。しかし……」
 長い舌が、修治の頬をなめる。
「ひと月の鍛錬をもってすれば、最弱を最強に転じることができる。それがこのガブリエルのガブリエルたる所以(ゆえん)。もはや儂は――私は――家族の顔も忘れている……」
 つまり戦いとは全く関係ない個性を身にまとい、嫌がるのをむりやり洗脳・改造したということだ。自らをそんな目に遭わせるとは、ガブリエルとは究極のサディストであり、マゾヒストなのだろう。
 いまは修治の姉であるガブリエルの眼差しが一瞬、なにかを思い出したかのように揺らいだ。ふと、修治がつぶやく。
「違うよ、姉さん」
 望はむしろその声に恐怖した。まるで魂が傷んでしまったような声だ。
「ねえさんはぼくをにくんでいるんだ、だからころしたいんでし」
 最後のほうで修治の声が詰まる。彼の胸を抱く両腕に、力が込められていた。
「憎い? そうだったろうか――。いや、儂はハンター。ランナーを殺すのに理由など要らぬ」
 ガブリエルより体格の良いはずの修治の胴が、彼女に締めあげられていく。ガブリエルなら修治のあばらを折り肺を破ることもできるはずだ。
 望は、勝ち目のない戦いだと悟った。そうだ、これはブラック・ランナーズの最終ゲームだ。自分より優秀だった仲間たちはみな死んだ。手ぬるいルールも浮わついた策略もない。本当の戦いなのだ。

 望はガブリエルの首を狙って蹴った。少女のものとは思えない、がっしりした感触が伝わってくる。
「うむ。いい蹴りだ」
 ガブリエルが修治から手を離して応戦する。
「お願い修治、動いて!」
 奇跡的に、修治は下り階段のほうへ歩いていった。
 いくらガブリエルが強いといっても人間の足。広いビルでの鬼ごっこに持ち込めば勝ち目はある。ランナーがひとりでも逃げ切りゴールを踏めば、ハンターの敗北なのだ。
 全身のあちこちから血を流しながらも、望は笑った。

 修治は薄暗いフロアで目を覚ました。階段をずいぶん降りた気がする。そしてこの家具売場に逃げ込み――修治は目の前の硝子戸を開いた――子やぎのように、棚のなかに隠れたのだった。絞められた肺はまだ苦しい。修治は咳をした。
 目の前にあるのはソファとテーブル、そしてチェスト。あとテレビ台があれば、ちょうど彼の家の居間に似た雰囲気になる。
 修治の姉が居間に現れることはほとんどなかった。彼女が自分の部屋から出てくるのは、母親が部屋を掃除するときか、深夜の盗み食いのときか、あるいは両親との喧嘩のすえ怒って暴れるときくらいだった。
 修治がいちばん覚えているのは彼女の怖さ、そして薄気味の悪さだ。朝ちょっと騒ごうものなら、百万の罵詈雑言とびんたが飛んでくる。両親に言っても、あの子はしかたがないんだと、諦めるように言われるだけだった。学校にも行かず荒れる姉を、修治も自然にどうしようもない奴なんだと思うようになっていた。
 しかし威されっぱなしだった修治も、姉より身体が大きくなれば反撃するだけの体力も知恵も身に付く。修治に勝てなくなり、憎しみをぶつける対象がいなくなった姉は、自分の身体を壊すことを選んだ。
 急激に痩せそして太るのを繰り返す姉から、生気はどんどん失われていった。修治にはそれが気味悪かった。だからつい出来心で
「姉さんがいると高校受験に集中できない」
と言ってしまったのだ。すでに個性保護法によって標準的な穏やかさを身につけていた両親は、その普通の意見を受け入れ彼女の異常さを拭い捨てることにする。
 修治の姉は当局へ連れて行かれ、早めの個性変更処置を受けた。
 帰ってきた姉は健康的で朗らかで、やわらかだった。修治が自分の部屋で塞ぎこんでいると、彼女はドアをノックして入ってきて言った。
「どうしたの、元気ないよ? 悩みがあるんだったら、お姉さんに話してみなさい」
 新しいそいつを、修治は人間ですらないと思った。
 しかし姉がそんな物になってしまったのは、自分のつまらないわがままのせいなのだ。

 一ヶ月後、修治はブラック・ランナーズに出場した。永久に失った、いや、自分が殺してしまった姉の個性を取り戻して――かわりに自分を消してしまうために。

 ハンターとして智美が甦ったのは幸いだったのかもしれない。修治自身が姉になるなどと回りくどいことをせずに、直接姉が復讐に来てくれたようなものだからだ。姉に殺されるなら本望かもしれないと、修治は感じていた。屋上で絞められたとき、あのまま殺されてしまえばよかったのだ。
 でも、足は階下へ向いた。なぜ?
 なぜかは分からない。ウリエルと同様、自分がかわいくなって現実から逃げたのではないか? そんな疑念が浮かんだのを、修治は否定した。
「せめて望さんだけはゴールさせなきゃ。それが残された希望なのかもな」
 修治は立ち上がり、今まで受けた傷の痛みを全身に感じながら大声で叫ぼうとした。
「……なんでさっさと逃げなかったの」
 修治は驚いて振り向いた。望が足を組んでソファに座っている。
「望さん! 無事だったんだ」
「無事じゃないわよ! たぶんガブリエルのやつ、ゆっくり楽しもうとしてる……。あんたはもう呑気なんだから、こんなところにいないで早く走らないと!」
 望は激しくののしりかけて、途中で止めた。
「ごめん。もうあたしにはあんたに指示する資格はないわね。あんなみっともないとこを見られたんじゃ、リーダーとしてはだめ」
「そんなこと言うなよ。俺は」
「結局、あたしというものはリーダーにもランナーにも向いてなかったのかもしれない。あたしの代わりにほかの誰かが選ばれるべきだったんだわ」
 修治は立ち上がると、近くに展示してあったレースのカーテンを引きちぎった。組立て本棚の化粧板にその布地を巻きつけてどうにか添え木を作ると、望の折れた左腕に当てた。
「ちょっと、痛いって」
「うまく言えないけど……俺は望さんはすごいと思う。ウリエルとかになにを言われたって、望さん自身は立派だよ」
 修治がまた咳をした。涙声になる。
「俺は姉さんと決着をつけるからよ。望さん、あんたはゴールしろ」
「なんでいまさら。あたしは、あんたの嫌いな黒百合団で人殺しだよ」
「んなの関係ねーよ! ……俺だって殺しちゃったんだし」
 望は悲しそうな顔をした。
「そんなに簡単に言わないで。それにあたしはゴールしたら『望』じゃなくなるんだよ」
 そうだった。ブラック・ランナーズは、既に自分を捨てた者たちなのだ。
 言葉を失った修治を、望は抱き寄せた。
「優勝者はひとり。あんたがゴールしなよ」
「でも俺は姉さんと再会できたんだ。あいつは俺の欲しかった姉さんそのものだから。もう優勝は必要ない」
「やめてよ! ……ほんと……もったいないよ」
 優しく諭すのは苦手なのか、望はどもりながら要った。
「修治くんがなんで自分を消したくなったのかは知らないけどさ。あ、あたしもね、あんたに、『修治』に生き残って欲しいみたい」
「なんで」
「ちゃんとできなくてもさ、とにかくがんばれるんだもの。あたしとは大違い」
 おかしなものだった。命をかけて他人になろうとするブラック・ランナー。それが、こんどはお互いをそのままの個性でいて欲しいと願う。不条理な話だった。
 修治はうつむいて、言った。
「とりあえず姉さんをやっつけないか。俺、またおとりになるからさ」
「あんたをそんな扱い方できない」
「今度は自分の意志でやらせてくれ! 俺が、望さんの作戦をやりたいんだよ」
 望が勢いよく立ち上がった。最初の自信が戻ってきたかのように、微笑む。
「了解。でもさ、あいつに単純なおとりなんか通用しないわよ。いちおう家族だったんでしょう、なんか弱点とか知らないの? あるいは癖とか」
「敷居」
「え?」
 修治は真顔で言った。
「姉さんは、ぜったいに敷居とか畳の縁とかを踏まないんだ。暴力をふるってるときでもね。……それが姉さんの癖さ。役に立つかな?」
「充分よ」

 間を置かずして、血だらけのドレスを着た少女がフロアに現れた。あたりを睥睨して、言う。
「たっぷりと時間はやったぞ。姑息な罠でも仕掛けられたか?」
 修治が立ち上がった。いちばん奥――そこは和室の展示スペースで、すこし高くなった床に十二畳のたたみが敷き詰められていた。修治は桐の箪笥にもたれながら叫ぶ。
「姉さん、俺はここだ! 来るなら来てみやがれ!」
「おう!」
 ガブリエルはゆっくりとはだしの足を進めた。
「もうひとりはどうした! 隠れていても気配で分かるぞ」
「姉さんと俺の一対一の勝負だよ。俺たちに必要なのはそうじゃないか」
 修治は言った。
「姉さんがおかしかったわけじゃないんだよ。俺がいて、父さんがいて母さんがいて、みんながいて、それであんな辛いめにあっちまったんだ。姉さんだけを他人にすり替えてうまくいくわけないだろ。本当は、お互いでなんとかするべきだったんだよ」
「……」
「ぶつかり合おうぜ。姉さん、女だったからよけいにストレス溜まってたんだろ? いまなら男も女も関係ない!」
「よく言った!」
 ガブリエルは左の手のひらを拳で打った。
「正々堂々と渡り合おうぞ!」
「おっと、俺だって本気なんだ。言っとくけど、罠はたっぷり仕掛けたからな」
「『罠がある』と口にするその気負いやよし。蹴散らしてくれよう!」
 ガブリエルはまっすぐに進んだ。その手につかまれれば、修治の首など折れてしまうだろう。箪笥にぴったりとつけた背中が汗ばんでくる。修治はそれでも動かずに、ガブリエルを待った。

 ガブリエルが畳の縁をまたいだ。
 爆発音とともに修治の視界が濁る。周りの家具も倒れたようだ。手探りで這うと、少女の手が触れた。
「しゅうううううじいいいいいいい!」
 つかまれる前に手を引き、修治は目の前のぼんやりしたものめがけて思いきり拳を振るった。どさっ、という音がした。
「修治くん、だいじょうぶ?」
 望の声だ。畳の下にプラスチック爆弾と起爆ボタンを埋め込んだのは彼女だった。
 第二ゲームで手に入れた爆弾を、どうやって持ちこんだのか? 修治は鉄橋で望の身体を抱き留めたとき、その胸が柔らかかったのを思い出した。そう、望はあるはずのない乳房に似せてランナー・スーツの下に爆弾を隠していたのである。
 そしてガブリエルは起爆ボタンの真上を踏んでくれた。だが、逆にそのことが、ガブリエルが修治の姉そのものであることを証明しているようで、修治はひどく悲しくなった。 袖で目を拭うと、すぐ前に望の泣き顔が見えた。
「修治くん!」
「望さん……、姉さんは?」
 ガブリエルが襲ってくる心配がないことは、見て分かった。下半身が砕け、足がおかしな方向に曲がっている。
「よくやったね、修治」
「えっ?」
 姉そのものの声が聞こえたので、修治は思わず駆け寄った。
「あんた、立派になったね。なんか、悔しい」
「そんな、姉さん、記憶が?」
「あんたとはいっしょにいてやれない」
 ガブリエルは手を伸ばして修治を触った。それはハンターのはずなのに、姉としか思えなかった。その個性をまとっている以上、この娘は修治の姉なのだろうか? 苦しむ修治に、ガブリエルは首を振って見せた。
「気になんかしないでよ。ひとはなんであるかじゃない、なにをするかで決まるんだ」
 ガブリエルの姿がかすんだ。上書きされた個性が、死に際に剥がれていく。彼女の姿は男性に、女性に、老人に、青年に、何度も変化した。そして最後に、たくましい男性の姿を取った。望が目を見張る。
「……ジーン!!」

 ビルディング一階は、第三ゲームスタート地点と対称的な形をしていた。
「もうここは安全地帯よ。なんてっか……おつかれさま」
 望は傷だらけの自分と、修治を見て笑った。
「あたしたちが初の優勝者なのかな」
「分かんね。当局が約束通り個性を渡してくれるって保証は、もうないからな」
 ゴールは無人だった。テープで引かれた赤い線。そこを越えれば、自分が自分でなくなるのだ。修治は線の前で立ち止まると、あははと笑って、近くの待合い場の椅子に腰掛けた。
「望さん、行きなよ。俺、もう姉さんにならなくてもいいんだし」
「あたしだっていっしょよ! もうジーンになるわけにはいかないんだもの」
「じゃあ、俺たちいったい、なんになるんだよ」
「それは……」
 修治は言った。
「あのさ、俺……。望さんになってあげようか? ていうか、もし構わないなら望さんになりたいんだけど」
 望は笑いだした。
「やだ、なによそれ」
「だってさ、このまま望さんが消えちゃうのって、それだけは我慢できないじゃないか」
「美人モデルとかじゃなくていいの? あたし、スタイル悪いよ」
「そういう意味で言ってるんじゃねえってば」
 いきなり望が抱きついてきた。
「ありがと。それじゃさ、あたしは修治くんになってあげる」
「……うそ……」
「ほんとよ! だって修治くん、かわいいんだもん」
「うわ。やめろよ」
「さあ、いっしょにゴールを踏みましょう!」
 ふたりは横に並んだ。
「いちにのさんで、せーのっ!」

「ゴーーーーーーーール!」
 スタジオで司会者が絶叫した。
「第三十七回優勝者は、『望』と『修治』、この二人です! もはや黒百合団の横暴を止める者はいないのか? 個性の保護は護られるのか? 重大な問題を残しつつ、次週、また、お会いしましょう!」
 司会者は決められた台詞を叫んだ。それは、優勝者がダミーだった回となんら変わりなかった。しかし、実態は違う。
 ブラック・ランナーズは、真の優勝者を出したのだ。

 当局中央の個性管理センターで、個性の上書き処置がなされていた。
 ランナーズ・スーツにケーブルが繋がれ、データベースコンピューターから個性を示すデータが注入されていく。特徴のなかった身体はすこし身長が低くなり、ふっくらと脂肪が付き、骨盤の形も変形した。胸が、スーツの生地を押し上げていく――。

 処置を終えた女性は、パジャマに着替えて部屋に戻ろうとしていた。スリッパをぺたぺたと鳴らす。廊下の向こうから、もうひとりの足音がした。
 ふたりは顔を合わせ、そしてとまどった。
「あ、俺? ……てことは、望さんか?」
「あたしってことは、修治くん。ほんとうになっちゃったんだ」
 ふたりははにかみながら、近づいた。青年がつぶやく。
「うっわあ、ほんとうにあたしだ。なんか、変なかんじ」
 青年は、女の乱れた前髪をそっと直した。女が恥ずかしそうにするのを見て、青年はくすくすと笑いだす。
「あたしだ! そんでもって僕は修治くんなんだ」
「俺は『僕』だなんて、言わねえっつうの」
「うそ。去年までお姉さんの前では『僕』って言ってたくせに」
「そうか、記憶もばれてんだったな――だったね」
 女はため息をついた。
「ほんとうにこれで、よかったのかな」
「さあね」
 個性を引き継ぐということは、過去のトラウマ(こころの傷)も、犯した罪も引き受けることを意味する。ふたりはお互いがどれだけ壊れていたかを知り、震えていた。でも、幸せな気分もした。
 だから、冗談めかして言った。
「なんだよ望さん、スタイル悪いなんて言って。胸もけっこうあるじゃねえかよ」
 女が両胸を持ち上げてみせる。
「やめてよ、ばか」
 青年が優しく、肘で突いた。ふたりは並んで歩きだす。
「当分は当局の監視下に置かれるって話でしょ」
「家に戻れないかもしれねえなぁ」
「ふたりでどっかアパートを探そうか」
「それって同棲ってことじゃん」
「いや?」
「……ううん」
 女は、青年に寄り添った。青年は女の肩を抱いた。

 一週間もすれば、個性書き換え前の記憶は消えてしまうだろう。ふたりがどうなるかは、このあと、彼らがなにをするかにかかっているのだった。

 終

 

 


あとがき

 連作・リレー小説を除けば、今作品は猫野がいままで書いたなかでいちばん長い小説です。けっこう苦労しました。掲示板・チャットなどで猫野を助けてくださった皆様に、感謝します。ありがと〜!
 それから、こんな長い話につきあってくれた読者の皆様、感謝します。ありがと〜!

 でも内容はアーノルド・シュワルツネッガー主演の映画「バトルランナー」といっしょですね(パクリだー)。ほかの方の作品でターミネーター物もありましたし、シュワルツネッガーの映画って、TS話と合うかも。つぎは「トータル・リコール」か?

 さて。現代は個人主義の社会です。なにか悪いことがあったとき、誰かが悪いことをしたとき、その原因ないし責任は、特定の個人を犯人探しすることで決められます。
 それがベストの方法なのでしょう。
 でも、悪い奴が消えてしまったら、それで世の中って平和になるんでしょうか? 猫野には分かりません。もちろん、ただ単純に個人の責任を取っ払っちゃうと大変なことになるのは、作中で書いたとおりですけど。
 今回はそんな話です。


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