図書館TOPへ

 

こおりの ほし

作:猫野 丸太丸

 






 ――氷の柱に口づけしたことはあるかい 硝子の硬さはきみを拒絶する ふれた唇は張りついて むりにはがせば赤い薔薇の血が流れるのさ――




 二年三組が閉鎖にあっていた。
 事件は深夜に起こったらしい。朝にはもう、廊下はあふれた生徒たちと野次馬でいっぱいだった。僕は人混みをかき分けて二組の自分の机に座る。筆箱とノートを並べてため息をついた。級友の大半は騒ぎを見に出ていってしまっている。

 隣の部屋には、まだ死体がいるのだろう。

 なにが起こったかは話し声の内容からだいたい分かった。僕は机にうつぶせで耳を塞ぐ。それでも騒音は入ってくる。部屋へ戻れと叫ぶ教師。けたたましい救急車と、取り調べのパトカー。なにもかも遅すぎるのに。

 だってふたりはもう、氷の柱になって死んでいるんだ。

 十二月のさなか、教室のストーブはまだ点火されていない。僕は机にしがみついたまま震える。感じているのはすきま風じゃない。壁の向こうから染みわたる、冷たさなんだ。
 そして氷の素は、僕らの身体にも息づいている。

 ひとりの女子のとびきり大きな声が響いた。
「お願いです、入れてください!」
 その声に僕はびくっとした。
「山野さんに――山野さんに会わせてください!」
 彼女の声だ。僕は教室を飛び出す。すぐ目の前に、女教師と向かい合う彼女の姿。必死にもがいて、男教師にも飛びかからんばかりの勢いで。また叫ぶ。
「みんな、あんまりだよ!」

 それは不思議な光景だった。だってこれで三度目の事件だ。教師も生徒もみんな、どうせまた繰り返されるだろう人死にだと思っていたくせに大騒ぎをして。そのなかへひとり、絶対にその現実を認めないと叫ぶ少女が現れた。だからみんな微動だにできないんだ。

 事実、彼女――牧原瑠衣を止められる者はいなかった。彼女は扉を開けた。
 目の前には、氷の柱。とうとう目の当たりにしてしまった、本物。なにか黒いものが、なかに透けて見えた。
「山野……さん……」
 彼女は校門を飛び出した。僕はその後を追う。

 校門を抜けた。警官がおや、と目を向けたが彼女は止まらない。たいして足が速くもないのに僕に追いつかれないのは、必死に走ることこそが山野への弔いだと彼女が思っているからだろうか。
 JRの踏切りでやっと追いついた。彼女に触れるわけにはいかないから、僕は瑠衣が遮断棒の前で息を切らし、そのまま諦めるのを待った。そして踏切りが開いたあとも彼女はそこにいてくれた。
 ふと、冷たい風が吹いた。いまのは彼女の吐息だったのかもしれない。僕は尋ねた。
「どうするんだよ、それで」
 瑠衣は僕をにらんだ。
「戻るわよ」
 いや、彼女がにらんだのは僕ではなかった。僕の後ろにふたりの警官がいて僕を捕まえようとしていたのだ。
 ああ、そうか。事件の連絡を受けて駆けつけた警官には、危険な僕が「瑠衣を殺す」ために追いかけているように見えたのだろう。なんか、間抜けな話だ。
 警官に両脇を抱えられ、僕は学校に連れ戻された。瑠衣は少し離れて後をついてくる。

 生活指導の広岡が取りなしてくれて、僕は釈放された。広岡は
「友達が亡くなってショックだったんだな。でもこれからは気をつけろ」
と言って瑠衣を教室に返した。僕もいっしょに指導室を出ようとしたら
「こら、いっしょに行くな。それに元木。おまえにはまだ言うことがある」
と呼び止められた。
 広岡は剃り残ったあご髭を撫でながら説教をする。
「まったく白昼堂々と男女で走り回るとは、なにを考えとるんだ……。警察はおまえが殺人鬼だとほんとうに思っていたぞ」
 もし広岡自身が瑠衣を追いかけていたら、発見その場で射殺だったかもなと、僕はくだらないことを想像する。
「俺はな、男女が共に高校生活を送るのは決して無駄なことではないと思っているんだ。おまえと牧原が仲がいいのも知っている。だからこそ、節度を持たねばならないんだ。男のほうが気をつけてやらんでどうする」
 いっそ「瑠衣と別れろ」と言えばいいのに。広岡の理解のあるようなないような台詞に、僕はいらだった。黙っている僕相手に、広岡はなお続ける。
「なあ、元木。おまえたちの気持ちも分かるが、軽はずみな行動はほかの生徒にも迷惑をかけるんだ。正直、今度の事故は先生らもかばいきれないかもしれない。この学校も、いつ男女別学になるかもしれない」
 僕は聞き返した。
「先生。学校はカップルが四組死んだらアウトって、ほんとですか」
 広岡は僕の頭を叩いた。
「不謹慎なことを言うな! 人の死に三回までならオーケーなんてことがあるか。危険異性交遊は禁止だ。牧原とは電話かメールくらいにしておけ」

 危険異性交遊は禁止、か。
 全国の八〇%を占める男子校の生徒のなかには共学に憧れるものも多いと聞くが、実態はこんなものだ。そして明日には、僕の高校も別学になっているかもしれない。四組の男女が死んだ高校は解体されるという噂は、すでに皆の周知となっていた。いや、昔ならひとりでも生徒に死者を出したりしたら、学校運営の責任問題になっていたはずだ。四組死んでやっと対策が取られるなんて、この凍死がどれだけ今の世界ではありふれたものになっているかを、表しているようなものだ。

 危険異性交遊なんて言葉が使われるようになったのは、いつからだろう。
 それは二〇二五年以降だった。
 低温ウイルスが接触感染する奇病、「氷柱病」が世界的に流行しはじめたのは二〇二五年、僕が小学一年生だったときである。敵対民族を絶滅するためにどこかの国が開発したとか、人口爆発に業を煮やした狂科学者が作り出したとか言われているこの病気は、感染後男女がお互いの身体を触れあわせたときにのみ、発病する。
 たとえばウイルスを保菌した男女が抱き合った場合、氷柱ウイルスはホルモンを感知して瞬間的に活性化、増殖する。ウイルスは増殖とともに周囲の熱を一気に奪うため、ふたりの身体は触れたところから凍り始める。
 男女が充分長い時間肌を合わせていれば、やがてふたりを包んだ一本の氷の柱ができあがるのだ。
 この病気が蔓延したことで人類は激減した。発展途上国では多数の死者が出たらしい。日本でも男女隔離政策が取られる前に、たくさんの男女が凍えていった。
 僕は母さんと妹から引き離され、いまは父さんとアパートでふたり暮らしである。街に出ても、男と女は互いに避けて歩くようになった。電車も別々、食事も別々。痴漢は殺人未遂で死刑に値する(今朝瑠衣を追いかけたのは本気でやばい行為だったかな)。
 そして、なによりもセックスが絶たれたのが厳しかった。人工授精でどうにか子供を設けている夫婦もいるらしいが、子供の減少は防ぎようがない。

 父親と一緒に暮らし男子だけの小中学校生活を過ごした僕が瑠衣と会ったのは、高校の合格発表のときである。三月の日差しがようやく暖かくなった高校に塾の友達と連れ立って行った。合格。男女共学の高校に行けると決まった途端、友人どもは早速女の子のことをあれこれしゃべり始めた。
 合格者一覧を眺めてひとりが言う。
「共学ったって、俺とかじゃ望み薄か? あーっ、カノジョほしー」
 もうひとりが肩をすくめながら言う。
「近づけるだけで御の字かもな」
 事実、僕たちのそばを通り過ぎる父兄も、そして合格者たちも、女は例外なく僕たちを遠巻きに避けて通るのだ。
「そりゃまあ、触ったら死ぬもんなぁ」
 周囲の態度にむかついたのか、その友人は地面の石を蹴りはじめた。飛んでいく石をあわてて避ける通行人。
「おい、悪ふざけ止めろ! 入学早々退学になるぞ」
「このくらいで凍りゃしねーって」
 そんな友達の騒ぎをぼうっと聞きながら、僕はただ合格者一覧を眺めていた。ふと、気づいた。
「あ、知ってる子がいるかも」
「え? どいつだよ、どいつ?」
 一同は迷惑も省みず掲示板に走り寄って、僕の言った番号を探した。女子であることを確認した皆は目を丸くした。
「牧原、瑠衣。だれよ、それ?」
「幼稚園くらいのとき、隣りに住んでた。そんなにはない名前だから本人かも」
「おーっ、チャンスじゃーん、元木!」
 僕は興奮した友達に首根っこを捕まえられた。
「幼稚園か。きっかけとしては弱すぎだが、努力次第でなんとかなるレベルだよな」
「さっそくお近づきになれ! 牧原さんにアタックしてこい!」
「アタックっていっても」
 アタックして死んだらお話にならない。僕が振りきろうとしたそのとき、僕の尻になにか角の丸いものが叩きつけられた。
「痛たっ」
 後ろを見ると、少女がちょうど振り回したカバンを一回転させたところだった。僕の尻を打った革の学生鞄が、ブレザーの袖から覗く小さな両手にしっかりと握られている。
「あのー、元木さん、ですか?」
 はい、とうなずくと、ショートカットの少女は感激したように微笑んだ。彼女の制服は、お嬢様学校で有名なところのだ。
「あたしです。隣に住んでた牧原です」
「あ、ああ。おひさし、ぶり」
 いまのお近づきだのなんだのの会話が聞かれていないことを祈りつつ、僕は適当にごまかした。
「合格してるよ」
「ほんと!」
 少女が掲示板を見ようとして人混みの後ろで飛び上がっている。幼稚園のころも背が低かったが、いまは差が付いたぶんますます小さく見える。百五十あるんだろうか。小さい鼻と二重の瞼にも見覚えがある。
「あ、あったーっ!」
「おめでとう」
「ありがと……って、元木君は?」
「いや、まあ、通ったけど」
「じゃあ、元木君といっしょの学校だね!」
 いっしょの学校。そうなんだ。女の子っぽいしぐさも、長い髪も、なに考えてるか分からないところも、なにもかもが見慣れない。珍獣を見るように見つめてしまっていることに気づき、僕は真っ赤になっていただろう。
 一歩前に出たところで邪魔が入った。僕は男友達どもに、少女は連れの女子生徒たちに引っぱられる。
「うわっ。し、四月になったらまた会おうね!」
「うん」
 少女はそのまま、女たちの集団のなかへ消えていった。ぼうっと後ろ姿を眺めていると、友人に頬をはたかれる。
「なんだよ」
「おまえ……。いま危なかったぞ。そのまま吸い込まれていきそうだった」
 その場にさっきの雰囲気はなく、ただ交通事故の現場に居合わせたときのような気まずさを、友人たちは醸し出していた。
「女って、危険だな」

 それが牧原 瑠衣だった。四月、僕は入学式が終わるも早々彼女を探しに行った。三組の開いている窓越しに勇気を出して呼ぶ。
「ま、まきはらさん!」
 きっと顔もひきつっていたに違いない。このときの僕はほんとうに恥ずかしい奴だった!
 瑠衣はそんな僕に優しく答えてくれた。女子どものおしゃべりを抜け出して、壁際の机を押しのけるおまけつきで堂々と僕に近づいてくる。皆の好奇の目のなか、肩をすくめた彼女は言った。
「じゃ、帰ろうか」
 道すがら僕はあがりっぱなしで、なにをしゃべったかよく覚えていない。瑠衣が引っ越したあとどうしていたかを尋ねようと思ったんだけどうまくいかなくて、最後には好きな本の話とかした気がする。瑠衣は相づちを打つばかりで、あっというまに僕の家の前まで来てしまった。
「あー、あたしの家、色が変わっちゃった」
 いまは他人が住んでいる隣りの家、二階建ての洋風建築を見上げて瑠衣は言った。
「せっかくだから上がってく? 父さんも喜ぶと思う……って、この時間はまだいないか」
「ううん、いいよ、べつに。家、見に来ただけだから」
 見に来ただけ。その言葉でますます混乱した僕。
「そうなんだ。でも、ジュースくらい飲んでいけば」
「ジュース? じゃ、飲もうか」
 突然瑠衣は走り出した。なにかと思ったら、すぐそばの公園の前へたどり着いた。
「なに? なんなの」
「あ、昔といっしょ。まだあった、良かったー。なに飲む? 炭酸はなしね」
 なぜわざわざ缶ジュースなのだろうか。公園前の自動販売機にさっさとコインを入れると、瑠衣は僕に尋ねた。仕方がないのでスポーツドリンクを頼む。瑠衣はなぜか自分のぶんのリンゴジュースを渡してきた。
「なんでだよ」
「おまじないなの。よぉく、振ってみて」
 瑠衣は両手でスポーツドリンクの缶を握ると懸命に振り始めた。僕も真似をして振ってみる。百回振ってから、缶ジュースは交換された。
 触ってみて驚いた。
「ね、すっごく冷えてるでしょう?」
「うん」
 スポーツドリンクは歯にキンとくるほど冷たかった。彼女もハンカチを缶に当てて飲んでいる。
 これが彼女のしたかったことなんだろうか?
「ご、ごちそうさまです」
「おそまつさま。じゃ、また明日ね!」
 瑠衣はそのまま行ってしまった。僕はもう声をかけるとかなんとか考えられず、ただ瑠衣の――女の子たちのすごさに驚いていた。ジュースが冷たく感じたのは、お互いの手の汗に含まれるごくわずかな氷柱ウイルスが缶にくっついたからだろう。そして交換されたときに冷凍能力を発揮したのだ。
 人の命を奪う氷柱ウイルスをこんなおまじない遊びにしてしまうなんて。僕はなんだか信じられなかった。

 僕はその晩、父親に瑠衣のことを尋ねてみた。意外にも父は隣りの牧原さんのことをよく覚えていた。
「ああー、牧原さんとこの娘さんな。一人っ子だったから母親について行ってしまって。お父さん、独りでだいぶ参ってたな。遠くへ引っ越したのも、そのせいかもしれんぞ」
「その子、同じ高校だった」
「そうかい。そりゃ驚いた」
 父は含み笑いを浮かべながらじっと僕を見た。僕は
「べつになにもしてないよ」
と答えてしまった。
「たださ。家にあがってって言ったら、いいよ、べつにって言われちゃった」
「そりゃそうだ」
 父は得意げに煙草をふかした。
「氷柱病は服なんかを通して発病することもあるんだ。きっと牧原さんの娘さん、男の住んでる家にあがって迷惑をかけるのを心配したんだよ」
「そうなの?」
「常識だぞ、これは。おまえも牧原さん家にあがりこんだりするんじゃないぞ!」
「べつに、しないよ」
 そうなのか。嫌われていたわけじゃなかったんだ。俺は安心した。明日、また声をかけてみよう。

 そのままずっと、僕と瑠衣はよく話をするようになった。すくなくとも毎日、顔を合わせた。授業も教室も別だったけど、なにかの時間につけて僕は三組のほうへ歩いていった。
 恐ろしいことにその程度で校内の噂になった。
 きっとつきあいのうまい奴は教師に隠れてもっといちゃいちゃしていたのだろう。一方僕たちといえば白昼堂々人目をはばからずに過ごしたのだ。瑠衣持ち前の大胆さと僕の重症の無頓着さが幸いしたのかもしれない。四月のうちにふたりは学年一のバカップルと呼ばれるようになり、僕はその状況を完全に勘違いした。事実上恋人同士だと思ってしまったのだ。

 僕は冬の時代の恋愛マニュアルみたいなのを読むようになった。書いてある文言を何回も読み返し、よしっ、と決心した。それを一週間繰り返し、彼女を放課後に呼び出した。
「僕とつきあってくださいっ!」
 彼女は目を丸くしていた。俺は直立不動で両腕を後ろに回して応援団みたいになっていた。
「ほら、べつにいっしょにいたって警察に捕まる訳じゃなかったったしっ!」
「うん」
「広岡がなんか言ってたけど、そりゃ安全に越したことないけど、それだけじゃつまんないしっ」
「うん」
「なかにはウイルスが発病しない人もいるんだってよ! 結婚して、子供までできたって(なにを言ってるんだーっ、俺は!)」
「あ、それはダメだよ」
「えっ」
 瑠衣はクスッと笑った。
「ほら、入学式の帰りにふたりでジュースを飲んだでしょ」
「うん」
「ジュース、しっかり冷えてた?」
「冷えてたって。あっ」
 ジュースについていた氷柱ウイルスはしっかり発動していたではないか。だとすれば、僕と瑠衣が身体を触れ合わせれば、ふたりはきっと、凍る。
「あれって、そのためのテストだったんだよ。知らなかった?」
 知らなかった。女の子はそんなことをして自衛しているのだ。
「ごめん! 僕は危険だったんだね! ちゃんと考えてなくて、ごめん!」
 僕は必死で謝った。
「えー、でも」
 瑠衣はまた鞄を振り回して、僕の左肩にとん、と当てた。分かった、それは肩に手を置く動作のかわりなんだ。
「こうやって話をするのは構わないじゃない……。つきあってあげても、いいよ」
 嬉しかった。そのときはただ嬉しくて、なにやら叫んだ気がする。
 今にして思えば、お嬢様学校を蹴って共学に入ったこととか、合格発表のとき向こうから声をかけてきたこととか、ジュースでテストをしたこととか……。きっと瑠衣のほうにも最初から気があったんだと思う。でも当時は、ただ嬉しかったのだ。

 恋人になってしまうと、共学と言えど男女が接するチャンスはほんとうに少なく感じた。僕たちはわずかなチャンスを見つけては会った。廊下で、屋上で、プールサイドで、校庭の木の下で。携帯メールは日に何本も送った。
 楽しかった。女の子が自分を好きと思ってくれて、いっしょにいてくれて、いっしょの時間を過ごしてくれること。それがこんなことだとはおもわなかった。
 瑠衣はびっくりするくらい変わった発想をする子で、瞳は丸くて好奇心に満ちあふれていた。でもちょっとしたことで興奮しやすいから、僕が気をつけてやる必要があるのだ。正直言うと。プロポーションのほうも、背が低いなりになかなかのものだった。彼女がブレザーを脱いだとたん、セーターの下の膨らみに目のやり場に困るとか……。

 そんな関係も、一組目の死者が出たとたんにあっさりと崩れてしまった。
 事件は人気の少ない河原で起こった。目撃者は夕方、不安そうに堤防を登っていくうちの高校の少女を見たという。深夜、その子は他校の男子高校生とともに氷の柱となって発見された。周囲の薄の倒れ具合、少女がうつぶせで土をかきむしっていたこと、ふたりがそれほど仲の良い関係でなかったことから、警察は男子高校生がむりやり少女を凍らせたと判断した。
 ニュースを朝礼で聞いた瑠衣はただ真っ青になって、僕と顔を合わせたときも、拳を握りしめていた。
「ひどいよ、女の子をなんだと思ってるんだよ」
 俺はなんと言っていいか分からず、適当になぐさめる。
「氷柱病がなきゃ、死にはしなかったのにな」
 瑠衣は怒った。
「そんなことないっ! 分かっててやったんだからただの人殺しだよ!」
 そうなのかもしれない。でも男のほうも死んでいるのだ、彼はなにを思って深夜の凶行に走ったのだろう? 僕は考えた。
 死んでもいいから女の子に触れたくなることって、あるんだろうか? 僕はなにげなく瑠衣の肩に手を伸ばした。
「きゃあっ!」
 そんなに叫ばれるとは思っていなかった。瑠衣は鞄を効果的に振り回し、僕の左手を弾いていた。そしてすぐに、鞄を抱き寄せて自分を守るような仕草をとった。彼女は護身術を習っているのかもしれない。男から、自分を護るために。
「なにするの」
「あ、違う、わざとじゃないんだ。つい、うっかり」
「そう……」
 瑠衣は立ち上がり、ぱんぱんと自分のお尻を払った。
「気をつけて、ね」

 その日以来、瑠衣と僕との間には一枚、薄い壁ができた。過ごす時間の長さは同じだ、楽しさだって負けていないけど、出会ったときのような我を忘れる感じは、消えてしまった。

 ふたつめははっきりと心中だった。
 翌年の二月、そのころには「公認カップル」呼ばわりの僕と瑠衣以外にも、明らかにつきあっていそうな連中が何組も現れていた。先生のほうも一年経てば単純な間違いは起こさないだろうと思ったのか、広岡ひとりがみがみ言うだけでとくに対策は取られなくなっていった。
 そんな矢先の事件だ。死んだのは村上と、相手はなんと言ったか、印象の薄い女子だった。村上はぱっとしない痩せたやつで、相手の子も、まさか男となにかするとは思われないような性格だったらしい。それが一ヶ月前からいっしょにいると噂になって、みなが驚いていたらあっというまに村上の自室で死んでしまった。
 その光景は想像を絶するものだった。部屋には摘まれた花が一面に散らばっていた。もとは鉢植えのプリムラっていう花だったらしい。
 いやなのが花言葉だ。「無言の愛」と「青春の美しさ」。本人がそう書いてたんだから、それを意識してたのは間違いない。
 実の親ですら知らないことだったのだが、村上は詩を趣味にしていた。花の意味に絡めて綴った遺書とともに、こんな文が残されていた。

 ――氷の柱に口づけしたことはあるかい 硝子の硬さはきみを拒絶する ふれた唇は張りついて むりにはがせば赤い血の華が砕けるのさ――プリムラプリムラプリムラプリムラ――

 この詩も、詳細は伝聞だ。氷漬けになって死んだ村上と久内がどんな格好をしていたのか、抱き合っていたのか、真っ赤な血が流れていたのか、それも本当のところは分からなかった。
 僕は独りで考えた。村上の一ヶ月は無言の愛だったのだろうか。彼らはそれに満足できなかった。だから最期に、青春の美しさを花と氷で飾ったのだろうか。ふたりの話を聞いた日、僕はいつもの時間に瑠衣に電話した。
「なぁに」
「今日はなにがあったの」
 意地悪な質問だった。でも、瑠衣は普通に答えた。
「今日は数学と社会がきつかったなぁ。数学の時間なんか、二、三回居眠りして」
 違う。それは嘘だし、僕らが話したいことじゃない。
「今日のドラマ見た?」
「見たよ、こんどのヒロインって、演技うまくないかな?」
 こんな話をしてどうするっていうんだ。
 一組目の他校の男子はなぜあんなことをしたのか。村上は、自分たちの死を飾ってなにが言いたかったのか。それを解決しなければいけないんじゃないだろうか?

 ふたりの会う頻度は、週に二、三回になった。

 そして二年の十二月の三組目。山野と高平が死んだ日。
 一時間の説教の最後に、僕は思い切って広岡に聞き返した。
「先生、なんで村上も、高平も山野も死んだんでしょうか」
 怒られると思いきや、広岡は真剣な顔で咳払いをした。
「そのことを考えているのか。うん、なにも考えない奴よりは立派だな」
 ひどい言いぐさだったが、僕は黙って聞いた。
「ひとことで言ってしまえば性欲に負けたんだと言える。彼らは性欲に屈服し、死を選んだんだとな。だが、性欲とはなにか。キリスト教あるいは近代自然科学の伝統から言えば、性欲とは動物的であり下位に属する脳機能活動だ、理性でコントロールしなければ文明的な人間にはなれない、そんなものだ。性欲をコントロールすれば学業に身が入る、未成年が子供を作って社会システムを狂わせたりしなくなる。人間のなかの一部分に『性欲』なんて名前を付けて管理させ、社会の歯車としてふさわしくなるようにしたんだな……分かるか?」
 僕は首を振った。
「困るな、ここまでは教科書の知識だぞ。問題は今、性欲がストレートに死に、生産性どころじゃない、死につながったってことだ。必要とされるコントロールが、人間の力じゃ無理なレベルまで上がっちまったんだ。死なないためには完全なプラトニック・ラブだ。どうする? 俺たちゃいったい、どうしたらいい?」
 広岡は節くれ立った硬い手で、僕の肩を叩いた。
「答えはまだ、分からん」

 一時間の説教が二時間になってしまった。僕は教室へと向かう。生徒が移動している、二時間目ももう終わってしまったのだ。驚いた、人混みのなかに瑠衣がいて、こちら目指して歩いてくる。
 いま怒られたばかりなのにと注意する間もなく、すれ違いさまに彼女はつぶやいた。
「今日って、放課後会える日だよね」
「うん」
「じゃ……、元木君、いつもの喫茶店に来て」

 最近の僕と瑠衣は、こっそり会うために人気の少ない喫茶店を利用していた。何回も事件を起こしているから、うちの生徒への周囲の目も厳しくなっているのだ。
 約束の時間に瑠衣が入り、その十五分後に僕が入る。瑠衣はすでに女性用の椅子に座り、一杯で粘るためのブレンドコーヒーを注文していた。僕はテーブルの向かいにある男性用の籐椅子に腰掛ける。
 コーヒーから立ち上る湯気を眺めながら瑠衣が言った。
「山野さんの相手、高平くんだったんだよね」
「知ってる」
 だって高平は僕のクラスで、今日いなくなっていて、合格発表の日に「カノジョほしー」って叫んでたやつなんだぞ。なにか伺い知れないところのあるような……。だめだ。死後に勝手なイメージを付け加えてしまう。
「高平君とは最近、仲良くなかったの?」
 僕は天井の壊れた換気扇を見つめた。
「いいや」
「いいやって……。じゃあ、なんとも思わないの?」
「だってもう三組目だよ」
 僕たちが大事なことをごまかすのも、三回目になるんだよ。
「関係ないよ、悔しいものは悔しい」
 でも瑠衣はもう、暴れたり飛び出したりしなかった。コーヒーをすする音が聞こえる。僕はその白い頬から眼をそらして、懸命に彼女にどうしてほしいか、どうしてくれないかを考えないようにする。
「瑠衣こそ、山野は親友だったのか。なんか聞いてたとか」
「聞いてないよ。でも、悔しいじゃん」
 無表情な僕にいらだって瑠衣がまた言った。
「悔しいじゃん!」
「僕も悔しいよ!」
 でもそれは親友を失ったことに対してだろうか、とうとう三組目の被害者を出してしまったことに対してだろうか。それとも、自分たちには高平たちほどの勇気がないことに対してだろうか。
 山野は会社社長のお嬢様だったそうだ。高平は儲からない玩具屋の息子だ。カノジョが欲しかっただけの男がなんでそんな悲恋をして、なんで死ななきゃならなかったんだ。
 それが「青春の美しさ」なのか?

 急に右のつま先に、チリッとした痛みを感じた。
「いたいっ」
「ごめん!」
 瑠衣が椅子を引く。僕はテーブルの下を覗きこんだ。瑠衣のすねの上に一点、皮膚が小さく赤くなったところがある。瑠衣は制服のスカートの足を椅子の横に出して、その前に鞄を置いて僕からかばった。僕のつま先が当たったのだ。
「ごめん」
「じゃ、これでおあいこ」
 瑠衣は反対の足で、僕の膝を蹴ってきた。鋭い爪が刺さったような痛みを感じる。彼女がつま先を引き剥がすと、僕の膝にも凍傷ができているだろう。
 もちろんそんなことでおあいこにはならない。なんでこう、下らないことで瑠衣を傷つけてばかりなんだろうか。僕はテーブルの足を蹴ってつま先の痛みを紛らわせることにした。
 天国の知らない男が、村上が、高平が。僕たちを見て嗤っているかもしれない。


 今日は疲れた。僕は宿題もほったらかしでベッドに入ってしまった。真夜中、ほとんど寝ていたころに、瑠衣から電話がかかってきた。僕は暖かいベッドから出ないまま、携帯を取った。
「なんだよ」
「ごめんね。ほんとうは……昨日、山野さんからメールをもらってたの」
 あわてて内容を聞こうとする僕に、瑠衣はただ
「メールをそのまま転送するから読んで」
とだけ答え、電話を切ってしまった。
 まるで、口ではとても言えない内容みたいじゃないか。はたして、メールが送られてきた。

「瑠衣へ
 こんなおてがみでごめんね
 あたしたちはしんでしまうかもしれません
 でもさいごに、瑠衣にはなしをきいてほしくって。
 瑠衣と元木くんは、あたしたちにとってあこがれのふたりでした」

 僕は胃がきつく縮むのを感じた。

「かわいいカノジョとハッピーになりたいとばかり言ってる高平くんも
 ふたりがうらやましいっていってました。
 いつもなかよしで、おたがいにやさしくて、すてきで」

 うそだ。こんなの、うそだ。

「あたしたちもがんばってふたりみたいになろうとしました
 でも、だめでした
 なにかがたりないんです
 あたしはそれをみつけたいとおもいます
 だめでごめんなさい
 瑠衣のこと、ほんとうにいいともだちだとおもってるから
 瑠衣たちは、ぜったいあたいたちみたいにならないでください」

 うそだ。この手紙は「おまえたちも同じ運命をたどるんだ」と言っている!
 「おまえたちも 死ね 氷の柱になれ」と言っている!

 僕のなかでこらえにこらえていた感情が爆発した。

 瑠衣に、触りたい。あの頬に、髪に、瞼に、腕に、背中に、足に触りたい。

 胸に手のひらを押しつけて、彼女の鼓動を感じたい。

 この腕のなかに彼女の体をとらえて、捕まえられない、分からない瑠衣のこころとからだがたしかにそこにあるのだと感じたい。

 でも。

 ――氷の柱に口づけしたことはあるかい 硝子の硬さはきみを拒絶する――

 僕がどんなことをしても

 河原で押し倒したって花に包まれたって

 感じられるのは凍り付いた皮膚と脂肪の硬さだけなんだ。

 僕は泣いた。悔しくて、泣いた。



 翌週、瑠衣はまた唐突に僕を呼びだした。はじめて彼女の家に上げてもらったのだ。
「いったい、なに?」
「ふふっ、るんるん」
 僕は怖くなった。自分の部屋に呼ぶなんて、まさか村上みたいに心中を考えたんだろうか。しかし、そんな深刻なことを考えているようには見えない。すくなくとも、深刻に考えまい、考えまいとしている様子だ。
「あ、スリッパは使わないでね。その新品の靴下に履き替えて」
「うん」
 お尻を振って階段を上がっていく瑠衣。いったいなんだというのか。
 彼女が用意したという段ボールを覗きこんで、僕は一層困惑した。
 分厚いタオルケットに、なにかの板。手袋みたいなのは、お料理の鍋つかみか?
「じゃ、元木くん。防御して」
 僕は柔道着やらなんやらを身につけて、着膨れのごっつぁんですみたいになった。彼女も極力綿類を身につけている。分かった。これは断熱材だ。
「行くわよ」
 瑠衣が僕の膝の上に座った。膝の上に座ったのだ! 着膨れたすえ、重いか軽いか分からなかったが、彼女の体重がもたれかかってくるのだけは感じた。
「瑠衣、いったいなにを」
「ここまで来たらね、びしっと決めたいな」
 彼女の顔が正面にある。まさか。彼女は、そっと瞳を閉じた。
(あたしだけ途中で目、開けちゃうからごめんね)
 僕も思いきって目を閉じた。部屋が寒い。ふたりの唇が近づく。綿入れを通じて冷たさが染み込んでくる。瑠衣はタイミング良くふたりの顔の間になにかを挟もうとした。

 しかし一歩遅れ、零下二十度の吐息がお互いの顔にかかった。まるで冷凍庫に顔を突っ込んだような刺激にむせ返り、僕はあわてて顔を背ける。瑠衣は膝から滑り落ちて尻もちをついた。手に持っていたプラスチック板が飛んでいく。

「はあっ、はあっ」
 僕は酸素を吸った。身体が寒い。どうしようもなく、彼女が乗っていた部分が冷たくなっている。
「……こんなんで死んだらどうするつもりだったんだよ!」
「ごめん、あとちょっとでうまくいくはずだったんだけど」
「いくわけないだろ!」
 僕は手袋を投げ捨てた。
「なによ、せっかくあたしが、あたしがファースト・キスあげようと思ったのに」
「どこがファーストキスなんだよ」
 俺が座り込んだまま震えていると、瑠衣はしかたなく散らかった道具を片づけ始めた。そしてついには、泣きだした。
「泣くなよ」
「泣きたくなるよぉ、せっかく元木くんのために考えたのに」
「なんていうかさ。気持ちは嬉しいけど、違うだろう」
 しばらく黙っていると、瑠衣は消え入りそうな声で言った。
「でも男って、やっぱりさ……、身体に触りたいんだよね」
 乱れた姿でへたっと座り込み、恥ずかしそうにうつむく瑠衣。先週のあの気持ちが噴き出しそうになって、僕はじっと耐える。
「女の子って、触りたくならないのか?」
「それは……」
 瑠衣が返事をしなかったのがたまらなかった。僕は両手を押さえる。自分で自分を抑えて、「殺意」をやり過ごした。
「瑠衣。そうやって誘惑してたら、死ぬぞ」
「えっ」
 僕は自分の着ていたものを片づけ始めた。ビニール袋に密閉し、ぱんと叩く。
「これ、危ないからうちで燃やすよ。瑠衣は、瑠衣はなにもしなくていいから」
 そのまま振り返らずに部屋を出る。
「もう会うのは止めよう。電話か、メールだけにしよう」
「そんな、なんで」
「しっかり僕から身を守っていてくれ。でなきゃ僕らは、死んでしまうんだ」

 死んでしまうんだ。
 これが結論だ。やはり僕と瑠衣だけいけしゃあしゃあと恋人を演じられるなんて、不可能だったんだよ。

 玄関を出るところで電話がかかった。条件反射で、つい振り返ってしまう。瑠衣がコードレスの受話器を取った。
「はい、え、連絡網? ええ……」
 途中まで聞いたところで、瑠衣は動かなくなった。
「どうしたんだよ?」
 俺が尋ねると、ようやく瑠衣は口を開いた。
「広岡先生が、死んだって」


 そして四組目の事件が起こった。
 翌日の朝礼で僕たちは説明を聞き、だいたいのところを理解した。
 広岡が氷の柱になって死んだのだ。相手はもちろん生徒ではない。長年連れ添った、奥さんらしい。子供が一人暮らしを始めたあとに、別居していた奥さんを自宅に呼び出して心中。みごとに計画的な自殺だった。
「っふざけるなあぁっ!」
 僕は拳骨で机を叩いた。級友たちが遠巻きに僕を見る。僕はひたすら怒鳴り散らした。だってそうじゃないか、これは広岡が死んだというより、四組目の事件なのだ。
 校長は閉校と、男女別の転校をほのめかした。
 僕と瑠衣、ふたりの高校生活はあと一年を残して終わってしまうのだ。
「なにがコントロールだ、僕よりよっぽどだめじゃないか!」
 こころのなかでそれは違うと声がする。広岡だからこそ、死を選んだんだ。広岡先生のほうが愛が深かったんだよ。あっさり諦められるママゴト遊びの元木くんの恋とは、レベルが違ったのだ。

 河原の男、村上、高平に続いて広岡までが加わって、僕の頭を混乱させる。これで終わりなのに。なにもかも、終わりなのに。

 僕は走り出した。教室を抜け、校門を出て、ただどこかへ走る。気がつくとまたあの踏切りにいて、僕の後ろには、瑠衣がいた。
「逃がさないもんね」
 瑠衣は鞄を爆弾みたいに構えて言った。
「学校代わるのがなによ、ムラムラが抑えられないのがなによ! あたし、元木くんのこと諦めない!」
 女の子にここまで言わせておいて、僕はなにをやっているのか。僕は息を整え、立ち上がった。
「ああ、いいよ」
「うん!」
 瑠衣は右手の小指を差し出した。
「ねえ。元木くん。来週のクリスマスイブ、あたしをどこかへ連れていって」
「わかった」
 僕も右手を出した。瑠衣はにこっと笑った。
「じゃ、約束。指切りげんまん」
 小指を絡める僕たち。そのまま我慢できなくなるまで――「はりせんぼん」のところまで、僕たちは触れあっていた。
 かじかんだ小指がまた動くようになるまで、一時間かかった。


 そしてクリスマスイブが来た。コートを着込む僕に、父親はただ
「行って来い、気をつけてな」
とだけ言った。父としてもなにか察知していたのかもしれない。僕は父と自分の家の形をしっかり目に焼き付けてから、家を出た。

 電車に乗って市の中心部へ行く。恋人たちが激減しても、商店街はクリスマス飾りをして精一杯の商売に励んでいた。待ち合わせの改札口に、黒いコートを着た瑠衣がいた。
 僕たちは手こそつながなかったけど、並んで街路を歩いた。風の冷たさも街の暗さも、恋人ならば気にならない。そんなクリスマスの気分は、まるで瑠衣と出会ったころを思い出させた。
「去年のクリスマスはなにしたっけ」
「えー、映画見てご飯食べて、それから意味もなく海を見に行ったじゃん」
「なんでかな、今年もいっしょだよ」
「お金持ちじゃないし、そうなるよねー」
 僕らはちゃんと、瑠衣の好きなハートフルコメディーを見て、ファミレスでご飯を食べた。主食を残したままサラダバーのポテトサラダばかりおかわりする瑠衣を、僕は
「おならが出そうだ」
と言ってからかった。でも、こころのどこかは常に冷めていて、最後の結論を、最後の最期まで、追い求めていた。
「でさ、つぎはどこへいくの」
「神社」
「えー?」
 驚いている瑠衣をせかし、僕たちは街の南側、海に近い神社を目指した。おまじないに詳しい瑠衣は、きっとここを知っているはずだ。
「あ、ここ。縁結び神社だ」
 そう、そこは縁結びの神がいることで有名なところだった。僕は瑠衣といっしょに石段を登っていく。
「石段を、全段、登ると、ぐっと、絆が、深まるんだよ」
「瑠衣、靴、だいじょうぶか?」
「だーいじょうぶっ。こんなときでないと、踵の高い靴履けないんだもん」
 それでも途中転びそうになりつつ、ふたりは境内までやってきた。
「お賽銭、奮発!」
 そう言って瑠衣が千円札を投げたのには驚いた。
「いいのか」
「だってさ」
 瑠衣は、首を振った。
「ほんきでしあわせ、ほしいじゃん」
 手を合わせる瑠衣の横顔を、僕はじっと見た。

 これで、終わりだ。

 お参りが済み、石段を下りようとする瑠衣を僕は呼び止めた。
「うん。瑠衣。ここでお別れだよ」
 瑠衣はしばらくじっとしてから、言った。
「元木くん、まだそんなこと言うの?」
 俺はあとじさった。ふたりの距離は開いていく。
「こうするのがいちばんなんだ。僕は瑠衣に、死んで欲しくない」
「やだ、やだよぉ」
「じゃあねっ」


 石段にいる僕に、飛びかかってくる瑠衣。
 瑠衣の身体に触れちゃだめだ! 懸命に避けようとする僕。
 足を滑らせる。
 激しい痛み。転がっていく、ふたり。



 僕は凍って砕けてしまったのだろうか。全身が冷たく、動くと痛い。下まで落ちたらしい。
「うーん」
 僕は頭を押さえながら起きあがる。そして異常事態に気づく。まるで世界が、大きく見える。
 目の前に映るのは大きな男。
 石畳に座り込んでこっちを見ていたが、僕が起きるときゃっと叫んだ。
「な、なんだよ」
 立ち上がる。寒い。そしてまるで体が縮んでいる。女物のコートの裾。そこから覗く足。これは。
「……まさか」
 僕はまた座り込んで、自分の体を確かめた。
 あそこで惨めに震えているのは、僕だ。
 それならこの少女の体は――瑠衣か。

「ねえ、君は、瑠衣かい?」
「う、うん!」
 男が飛びかかってきそうになるのを、僕はあわてて制する。
「危ない! いまのきみは男なんだ!」
 その男の動きが止まった。僕は男の肩や、くせのある髪や父親に買ってもらったコートを見て確かめる。
 そして小さな手で自身の顔を撫で、頬にかかる髪を払い、そして、思いきって胸に触ってみる。
 確信した。
 いま目の前にいるのが僕で、この体は瑠衣なのだ。

 血の巡りが戻るにつれて、僕の今の体の感覚が戻ってきた。しかしそれは新たな驚異の始まりだった。何気なく触っているものが女の子の髪の毛であることに気づく。びっくりするほど柔らかくてなめらかなのだ。
 のどに触れる。柔らかくて頼りない。手は小さくて、爪がかわいらしい。そしてなによりも、両腕の間にあるのが胸のふくらみであり、
 僕は物心ついて始めて、女の胸に触れた。
 歯の根が合わないくらい震えた! これはほかならぬ瑠衣のなんだ!
 こんなに近くにいる、触っても凍ってしまわない瑠衣なんだ!

「瑠衣は。瑠衣のほうは、だいじょうぶか?」
「うん。すごいよ、元木くんが、元木くんがいる! ここに!」
 瑠衣も同じことを思ってくれた! 僕はそのことに至福の喜びを感じた。

 あんなに届かなかった瑠衣の体が、いまここにあり、
 あんなに届かなかった瑠衣のこころが、同じ気持ちで僕の体を抱きしめてくれている。

 その安心感が激しく僕を揺さぶる。僕は何回も瑠衣の体を確かめる。強烈な上に、しかもそれは瑠衣の感覚なのだ。

 そしてやがて、触りたいという気持ちは触って欲しいという気持ちに変化する。
 手のひらでなでるたびに、瑠衣が触られたらどんな感じなのかが伝わってくるのだ。気持ちがやがて、はっきりとした形を取るだろう。

 この瑠衣の体を、僕の手で触れてほしい。
 僕の体を、この瑠衣の体で触れてあげたい。

 見れば、瑠衣もまた僕の体に触れていた。
 あの手で、この体を触らせてあげたい。
 僕と瑠衣、瑠衣と僕。循環する気持ち。村上も高平もこれを感じていたんだ。
 罪の意識も疎外感も消えていく。なんでいままで恐れていたんだろう。そう、

 僕はいま瑠衣の体で、僕の体の瑠衣にしっかりと、抱きしめられていた。
 瑠衣はいま僕の体で、瑠衣の体の僕にしっかりと、抱きしめられていた。









 ここまでの話、どうだったろうか? ふたりはこのあと、どうなると思う?
 論理的な結末としては、運命はもちろん氷の柱だ。
 でもね。
 いくら極悪非道の作者でも、ふたりをそんな悲しい目にあわせる訳にはいかない。
 だって、きょうはクリスマスなんだから。



 凍える聖夜に――メリー・クリスマス。








図書館TOPへ

おふび〜つTOPへ

 

 本作品の著作権を猫野丸太丸は放棄しません。
 転載・改作・同じネタの作品製作を猫野は制限しません。
 中傷目的・公序良俗に反した目的での使用はおやめください。